去る平成二十八年十月二十九日、アルテミオ・リカルテの生誕百五十年記念祭が、横浜山下公園内にあるリカルテ記念碑の前で催行された。リカルテは、フィリピン独立の英雄にして日比友好の絆である。彼は、フィリピン独立革命の指導者として、宗主国のスペイン、そしてアメリカと戦い、米比戦争で敗北して以降は、我が国に亡命した。そして大東亜戦争の勃発に際して、フィリピンに帰還し、山下奉文大将率いる我が軍と共に戦ったのである。結局リカルテは山中で病を発して亡くなったが、戦後フィリピンはアメリカの影響下に於かれながらも独立を果たした。

東洋学館設立の直接的経緯としては、明治十七(一八八四)年八月の清仏戦争勃発という緊迫した東アジア情勢を挙げることができる。ただ、東洋学館の構想は、民権派を中心に明治十五年の壬午事変後から温められてい
たものである。その中心となったのは、熊本の宗像政、日下部正一、鹿児島の長谷場純孝、和泉邦彦ら九州改進党の人々だった。九州改進党は、熊本の実学党の流れをくむ公議政党を核として、全九州の民権派に呼びかけて明治十五(一八八二)年三月に結成された組織である。

アジア諸国は、西洋列強による植民地化の過程で伝統文化を無残に破壊された。劣等感を植え付けられたアジア諸民族は、独自の文化への誇りを失い、人間中心主義、物質至上主義といった西洋近代の価値観を受容していった。こうして、自らの伝統文化、宗教の中の普遍性は忘却させられたのである。

『日本書紀』の天智六(六六七)年十一月の件には、「筑紫都督府」といふ謎の記述が、百済の「熊津都督府」と並列される形で登場してゐる。後年の大宰府の前身にあたる施設の様だが、「都督府」といへば、唐が羈縻体制下にあたつて、被支配国に敷いた軍事施設である。半島においても、同盟を結んだ新羅には鶏林都督府、百済滅亡後、熊津都督府、高句麗滅亡後には安東都督府などが敷かれてゐる。その点について、中村修也氏は『天智朝と東アジア』(NHK出版、二〇一五)の中で、「...百済や高句麗の敗戦後の状況を考えれば、日本にも都督府が置かれる状況はじゅうぶんにあったと解するべきではなかろうか」と提起している。七世紀に唐に敗れた百済や高句麗同様、白村江敗戦後の日本に「筑紫都督府」が敷かれたであらうと考へるわけである。そ...

先日、弊会顧問の坪内隆彦が新著『 G HQが恐れた崎門学』(展転社)を上梓された。本書は、江戸時代前期の儒者・神道家である山崎闇齋が創始した崎門学を基調に、幕末志士に影響を与えた五冊として浅見絅齋の『靖献遺言』、栗林潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』を取り上げ、それぞれの史的背景や根底思想について論じている。