記事紹介【大亜細亜・第三号】アジア主義に生きた杉山家の伝承③ 杉山満丸

2017年07月12日

杉山家に伝わる思想がどの時代から伝わったものか知る由もありませんが、私の父杉山龍丸が書き遺した文章を読むと、私の祖父夢野久作(作家本名杉山泰道)から長男龍丸へと伝えられた教えの一端をうかがい知ることができます。以下は、福岡の月刊誌「フォーNET」に連載したものです。

杉山学(一)

龍丸(夢野久作の長男)が小学校に入った頃、よく人かは、大きくなったら何になりますか?」と、訊 きかれました。ある時、同じように聞かれた龍丸が、即座に、「うん、うちな、うちは、陸軍大将になるとたい」と答えました。その様子をそばにいた父夢野久作は笑って聞いていました。それからしばらくたった時、父久作が龍丸に次のような話を始めました。「龍丸、明治維新後、多くの志士が、明治の元勲とやら、大将とやら、男爵とやら、華族になったりして、偉い奴のように思うとるが、あやつらはな、人を踏みつけにしたり、ずるいやつばかりなのだ。本当に明治の御一新(明治維新のこと。明治10年頃までは御一新という言い方が一般的であった)のために働いた人々、純粋な人々は、皆死んで行ったのだ。いざというとき、あやつらは、皆逃げて行った奴だ。本当の人々は、皆笑って、堂々と死んで行ったのだ。お前は、それでも、陸軍大将になるのか?」と、龍丸に問いかけました。

加藤司書の切腹事件(乙丑の獄)のとき、勤皇開国派の志士の人々が沢山捕まりました。徳川幕府と、黒田藩の佐幕派【※尊王攘夷討幕に反対し、幕府政策を是認補佐した幕末党派】の人々は、尊王攘夷派の過激な人々を挑発して事件を起させ、そして、自分等の開国の責任上、最も将来障害となる、勤皇開国派の人を捕えて処断したのでした。勤皇開国派の人々は、過激な行動や、暴力的行為が、日本の将来を開拓するとは思わず、もっと、国民生活、農業技術、経済や、国や社会の機構を改めてゆく、いわゆる経綸をもって、努力していた人々でしたが、故に、捕えられても逃げかくれせず、また抵抗もしませんでした。また、何時死が到来しても、日頃からなすべきことをやっていましたし、覚悟も出来ていました。桝子屋の牢に幽閉され、そして、斬罪に処せられた人々のことの言い伝えがありますが、それらの人々は、牢獄の中でも、日常の生活と変ることなく、斬罪の場に出されても、仲間の人々と談笑していたということでした。 尊王攘夷派の人々は、自ら挑発に乗って、 爆発しましたが、逃亡した人が多かったようです。夢野久作は、これを非常に憎み、そして、このように従容として死についた人に限りない尊敬の念を抱いていたようでした。それは、彼の祖父三郎平灌園から詳細を聞き、噛んで含めるように教えられていたからでしょう。

※乙 丑の獄、一八六五年(乙年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件。乙丑の変と呼ぶ場合もあります。

一八六四年に家老加藤司書藩士月形洗蔵中村円太平野国臣らを中心とする筑前勤皇党は藩政を掌握しました。そして、八月十八日の政変によって京を落ち、長州藩から太宰府天満宮に逃れた三条実美以下七卿(福岡に到着したのは五卿である)と供として付いていた土方久元ら元土佐勤皇党の人々の面倒を見ることになりました。彼らは、長州討伐を前に長州藩を説得し、西郷隆盛や坂本龍馬の間に立ち、薩長同盟の世話をするなど一時は幕末の主役となって活動していました。月形は西郷坂本桂小五郎といった大物と親しく「月形半平太」の名前で呼ばれるほどの人物でした。また加藤は薩長同盟の際、両藩の仲立ちを頼まれるなど大いに活躍し、筑前勤皇党の名を全国に知らしめました。加藤はロシアのプチャーチンが長崎に来た時に鉄砲隊五百名を率いて長崎警固に向かっており、その際に夢野久作の曽祖父啓之進も同行したと伝えられています。福岡藩に帰ってきたあと、福岡城は港に近く外国艦船の砲撃にさらされると感じた加藤は犬鳴峠に6犬鳴御殿の建設を始めます。その、犬鳴御殿建設があだとなり、一八六五年、藩士ならびに関係者百四十名以上が逮捕され、加藤建部以下七名が切腹、月形中村以下十四名が桝木屋(福岡市中央区地行浜)で斬首(うち一名は脱獄するものの力尽き、那珂川から箱崎松原(同市東区箱崎松原)に漂着した遺体を斬られた)、野村望東尼以下十五名が流罪という大弾圧が繰り広げられました。今でも、加藤司書が生きていれば、坂本龍馬は現れなかったと歴史に興味がある福岡人は思っています。なお、五卿のうち、東久世通禧が筑前勤皇党の福岡藩士林元武、早川勇あてに贈った書が2つあります。林あてのものは下関市長府博物館にあり、早川あてのものは不明(遺族が所持か)です。杉山家も、当主啓之進(夢野久作の曽祖父)が隠居、長男は廃嫡となり、そのため、長女と結婚していた久作の祖父三郎平灌園が青木家の長男でありながら杉山家の跡を継ぎ杉山家はなんとか継続することができました。杉山三郎平は、藩校修猷館の水戸学の助教で、その後、藩の外務大臣にあたる諸藩応接役として活躍しています。また、調べていくと、長州の吉田松陰も薩摩の西郷隆盛も水戸学の影響を受けているのです。余談ですが、水戸学成立には北部九州の人物が大きく関わっています。水戸学成立に大きな影響を及ぼした朱舜水は、明国滅亡時に長崎に逃れてきた儒学者で、その舜水を支え続けたのが、柳河藩の儒学者であった安東省菴です。省庵は、少ない俸禄から、六年間に渡りその半分を長崎にいた朱舜水に送り続けます。後に、朱舜水は水戸光圀に見出されて江戸に旅立ち、その際に、柳川に立ち寄り、省庵に自分の全財産である三体の孔子像を託したと伝えられ、それは今でも実在しています。さらに、安藤省庵を重用した柳川藩の藩主は苦労人立花宗茂で、その実父は、岩屋城の戦いで有名な高 たかはしじょううん 橋紹運です。私は、「高橋浄運なくして立花宗茂なく、立花宗茂なくして安東省菴なく、安東省菴なくして朱舜水なく、朱舜水なくして水戸学なく、水戸学なくして、吉田松陰も西郷隆盛もなく、そして、明治の御一新(明治維新)もない」と思っています。

2.杉山学(二)

徳川幕府と、黒田藩の佐幕派【※尊王攘夷討幕に反対し、幕府政策を是認補佐した幕末党派】の人々は、尊王攘夷派の過激な人々を挑発して事件を起させ、そして、自分等の開国の責任上、最も将来障害となる、勤皇開国派の人を捕えて処断したのでした。 勤皇開国派の人々は、過激な行動や、暴力 的行為が、日本の将来を開拓するとは思わず、もっと、国民生活、農業技術、経済や、国や社会の機構を改めてゆく、いわゆる経綸をもって、努力していた人々でしたが故に、捕えられても逃げかくれせず、また抵抗もしませんでした。また、何時死が到来しても、日頃からなすべきことをやっていましたし、覚悟も出来ていました。桝子屋の牢に幽閉され、そして、斬罪に処せられた人々のことの言い伝えがありますが、それらの人々は、牢獄の中でも、日常の生活と変ることなく、斬罪の場に出されても、仲間の人々と談笑していたということでした。尊王攘夷派の人々は、自ら挑発に乗って、爆発しましたが、逃亡した人が多かったようです。夢野久作は、これを非常に憎み、そして、このように従容として死についた人に限りない尊敬の念を抱いていたようでした。それは、彼の祖父三郎平灌園から詳細を聞き、噛んで含めるように教えられていたからでしょう。杉山家は、代々、国学や、儒学の伝承があったようです。それは、黒田公のお傍で、常に学問や武芸、或は武士のたしなみとしての能楽その他のことをお相手していたことにも原因があったようでした。特に、能楽等は、能役者というものは、日本の階級制度では、一般庶民より下に見られていた時代でしたので、直接諸公の身体に触れて指導することや、言葉をかけることは出来ないことになっていました。それで、お手直し役とかいう、側近のものがあって、それには、士分で諸芸に堪能なものがあたっていた訳です。杉山家は、いろいろな役職にありましたが、本来この方の家柄と申すことが出来たでしょう。杉山家には、これらの古書が多くありました。そして、親から子への伝承がありました。特に祖父の杉山三郎平灌園が、修猷館の助教として、水戸学派の専門家であったという経歴がありますが、父杉山龍丸が夢野久作から教えられたものは、水戸学派の朱子学とは異なるものでした。その一例が、明治維新の「維新」という言葉でありました。中国の『詩経』という書物は、孔子が、儒教を創始するとき、中国の伝統の宗教的な経典として、最も重要なものとした、四書五経の中の一つであります【※儒教の教典の総称。『大學』『中庸』『論語』『孟子』を四書、『詩經』『書經』『禮記』『易經』『春秋』を五経と呼ぶ】。  その『詩経』の中の大雅篇の中の文王の章に、「維新」という言葉があります【※「文王在上、於昭于天、周雖舊邦、其命維新」(『詩經』大雅文王之什にある詩篇「文王」より)】。この中国の文王は、周王朝の創始者でありますが、文王は、元来殷の国の地方の諸侯の身分でありました。殷の国の王であった紂という人は、大変な暴君でしたので、諸侯は、紂を討つべしと、文王に迫りましたが、文王は、黙って自分の国に帰って、只国内の政治に努力したのでした。文王の子、武王は、遂に起って紂を討ちまして、周王朝の時代になりました。これを、『易経』では、革命と申しています。【※「天地革而四時成、湯武革命、順乎而應乎人」(易經「革卦」)】革は、生皮をなめして、強靭にすることの意で、天命が、新しく強靭になるということです。維新は、その意味を有して、文王の謹み深く、ひたすら、道を努めた姿より具現するものを示していると申します。しかし、歴史的に見て、臣下のものが、主君にかわって、天下国を治めることになった訳で、夢野久作は、その維新という言葉を、日本の明治の変革にあてはめるのは、歴史的事実を歪めるものである。それは、何処までも、御一新でなければならなかったのだと、父に申していたそうです。  それは、夢野久作の考えだけではなく、啓之進、三郎平灌園、茂丸、そして、夢野久作と一貫して、伝承して来たものと思われます。明治維新と前後して、この政体の変革に際して、多くの歴史的に明らかにされていない暗闘があったようです。勤皇開国派の人々は、徳川幕府や、佐幕派の各藩の人々からも、特に明治になっては、尊王攘夷派であった人々からも狙われて、多くの暗殺や、権力による圧迫や迫害の対象になったようです。それは、天皇を中心とする、欧州の帝国主義貴族制度を導入して、幕府の官制や、財政組織を新政府に組入れることを行ったことにより、いっそう甚だしくなったように思われる点があります。

夢野久作は、祖先からの伝承もあったでしょうが、本当に真面目な人々、日本の将来のために努力している人々を、権力や組織機構の力で迫害し法の名の下に暴虐な無法な行為があったことを憎悪して、父に多くの例をあげて話していました。明治前後から明治十年に亙る一連の事件は、その裏面にそのようなことがあったとして、具体的に話をしていたこともありました。そんな時に良く例を引いていました天智天皇の古歌に朝倉や、木丸殿にわがをれば名のりをしつゝ行くはたが子ぞと、いうのがあります。【※『新古今和歌集』卷第十七、天智天皇御歌】昔の天皇は、民百姓と共に生活をしていて、国民と共にあったのだ。天皇は、常に国民と共にあって、国民のために働いて居られた。そのために、天皇の御殿は、丸太の木でつくられ、屋根は、自然の萱で葺かれて、軒は切らずに、萱の葉先が自然に垂れたままであった。非常に質素なものであった。京都の御所も、決して棟の高いものでなかった。しかし、明治になって、徳川の城に入り、 濠を深くし、国民との間を隔て天皇をとりまく連中は、外国のまねをして、昔の徳川の諸侯よりもっと俗悪な外国の貴族のまねをして堕落して行った。それは、日本の本来の姿、天皇の本質的なものを失うことになったのだと憤っていました。

*朝倉の宮  『日本書紀』によれば、斉明 天皇六年(六六〇年)七月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇七年(六六一年)三月二十五日に娜大津(現在の福岡市博多区)の磐瀬行宮に入り、五月九日に朝倉橘広庭宮に遷して、百済復興の戦に備えた。しかし、七月二十四日に朝倉宮で崩御。朝倉橘広庭宮に都が置かれたのはわずか二か月余りということになる。