記事紹介【大亜細亜・第三号】日本精神を失わなかったフィリピンの志士ピオ・デュラン 坪内隆彦

2017年06月25日

「志士を作るものは志士である」

フィリピンの志士ピオ・デュラン博士の人生は、日本精神への傾倒と東洋への回帰で彩られている。

昭和十七(一九四二)年一月にわが国がフィリピンを占領した時、日比の大亜細亜主義者は、日本精神への傾倒と東洋への回帰によって、すでに固く結ばれていたのである。

第一四軍宣伝班に加わった望月重信大尉は、日本精神をフィリピン人に叩き込もうとした。東京帝国大学大学院支那哲学科を卒業した異色の軍人望月は、皇道主義者渡辺薫美に学び日本精神の真髄を体現することを志していた。昭和十七(一九四二)年末、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。

念の為言えば、望月が望んだのは、日本精神の押しつけではない。日本精神の真髄を他民族に自ら示し、民族覚醒を触発することだった。だからこそ、日本精神に悖る日本軍人の行動を、望月は容赦なく批判した。報道部発行の陣中新聞『南十字星』に寄せた「聖戦一年を顧みて」(一九四二年十二月)で、些細なことでビンタを食らわした日本兵や、日本軍政の威を借りて暴利を貪る日本人を痛烈に批判、さらに「大マニラ市の紅灯のもと、夜毎に美酒に酔い痴れ、売色女の媚に現を抜かしているのは、一体何処の国民であろうか?」と痛烈に軍上層部を批判している。望月はまた、次のように書いていた。

「新比島が真に生命ある国家として成長す る為に死する志士が必要である。世に志士とは即ち死士の意である。今日比島に必要なるものは斯くの如き死士の出現である。

今日幾人の志士がこの比島にをるか。上は大官要人より下は一吏一市民に至るまで多くはアメリカの鼻息をうかがいつつ大東亜戦争の流れに便乗せんとする阿鼻追従者である。と言うも過言でない。物質の窮乏は日一日と切迫を告げる。人心の腐敗に至つて遂にその言うべきを知らないような惨状である。(中略)『フィリピン』建設の鍵は実に比島に幾多の志士を作ることである。

然らば何物が志士を作ることが出来るであろうか。日本学を講義しても、東洋精神に帰れといくら絶叫しても志士を作ることは出来ない。志士を作るものは実に志士である。志士のみが志士を作り得るのである。即ち問題は在比日本人が真の志士となることが出来るかどうかということが比島を建設し得るかどうかの根本問題となるのである。即ち日本人が比島建設の為に死に得るかどうかという事が中心問題である」(望月大尉祖述、太平塾生法子いせ謹記「死士道国生み」)

自ら志士たるざるして、相手に何も伝えることはできない。望月の覚悟が窺われる。

フィリピン人の愛国心の醸成と、フィリピンの東洋回帰を目指した望月が、東洋的訓練を実践躬行するため作成したテキストが『国柱』である。その序文で彼は次のように書いている。

〈東洋精神に復帰する為には東洋的生活訓 練が必要である

この書は新比島建設の指導者となるべく選抜されたる六十三名の青年学徒が「タガイタイ」の高原に於て燃えるやうな愛国の情熱を以て新比島建設の柱となるべく練成精進した生活の指標である朝には太陽に先んじて闇を蹴破り斎戒沐浴して神意を仰ぎ日出でて は勉学精励して新時代の学を究め 日傾けば 労働三昧仰ぎて天の高きを知り   伏して地の 大を知る   日没すれば深夜法燈のもとに沈思 黙坐し   久遠の時の流を凝視し   揺がざるこ の国の礎を打ち建てんとして精魂を傾けたのである 斯して掘り抜きたる民族精神の泉は比島の地下数百尺より噴出しこの国の万のものみな今や新生命に息吹を吹き返しつゝあるのである

東洋精神への復帰は比島の大地を深く掘り下げる事によつてのみ可能である

東洋精神への復帰これ新比島建設の大前提であるこの心こゝに確立せらるゝならば新生比島の興隆は火の乾きたるにつき水の低きにつくが如く極めて容易であるその将来は希望と幸福と栄光に満ち満たされてゐる希くば新生比島の百年学徒よ新時代の流に竿さす為には新しき時代精神と新しき科学とが必要である

『新しき酒は新しい革袋に盛らるゝべし』 とは今日のことである〉

デュランの東洋回帰論

望月が掲げた方針は、まさにデュランの思想と共鳴していた。望月の思想は、わが国の在野の興亜論者が発展させてきたものである。わが国興亜陣営は、植民地解放を目指すアジア各地の志士との関係を強めていた。フィリピン人としては、一九一五年に日本に亡命したアルテミオ・リカルテ、一九三四年に日本に逃れたベニグノ・ラモスらが代表的な志士である。

デュランは、一九〇〇年五月にアルバイ州(Albay )ギオバタンに生まれ、一九二四年に国立フィリピン大学卒業後、数年間同大学法学部の教授として後進を指導した。その後、友人のマルエル・リムと共同で法律事務所を開設、日本との関係を深めていく。横浜正金銀行、日本鉱業など、日本人関係の顧問弁護士を務めたのがきっかけである。

一九〇九年にわずか十六歳で単身マニラに渡り、日比間の経済交流に尽力した金ケ江清太郎は、次のように振り返る。

〈アメリカの統治下にあった当時のヒリッ ピンで、堂々と日比同盟論を主張する氏の勇気と信念には、わたしも感服したものだった。デュラン氏が学者としての立場から、あらゆる関係の文書を渉猟し、研究を重ねてゆくうちに日本の歴史と国体を知り、そして日本民族に心を惹かれ、ことに氏の魂を強くうったものが、日本古来の武士道の精神であったらしい。ヒリッピンのように言葉も習慣も、そして文化も宗教も異なる群小の多民族が雑居している国で、国家としての歴史もまた、民族としての伝統もなく、まして植民地として永く外国の圧制下に苦しんできた国柄であってみれば、連綿たる歴史と伝統と文化を待った国家と国民に対して、深い憧憬を抱き、ことに明治維新後、近代国家として発展してきた隣邦日本に、心から尊敬の念を寄せていたとしても、不思議なことではあるまい。しかも主君に仕えた武士たちの、烈々たる自己犠牲の忠誠心と、義を第一とする五常の道は、おそらくデュラン氏には驚異であったに違いない。ともあれデュラン氏の日比同盟論は、ヒリッピン人のなかにも多くの共感を呼び、ようやくナショナリズムに目覚めてきた人たちには、人気があったものである〉(『歩いて来た道―ヒリッピン物語』)

デュランは、一九三五年には、『 Time for a back-to-the-Orient movement in the Philippines 』を刊行していた。彼の論文は大 亜細亜協会発行の『大亜細亜主義』にも掲載されていた。一九三五年五月号掲載の「大亜細亜運動と比律賓」、一九三六年八月号池債の「大亜細亜主義運動と比律賓」などである。

デュランは『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、一九四二年)では、次のように書いている。やや長くなるが、今日の日本人に対する鋭い批判ともなっているので、途中省略せず引く。

〈多数の自国国民を覚まさしめ行動にまで 奮ひ立たせた最大の理想家にして愛国者たる著名にして、尊敬すべき支那人政治家(孫文、引用者)の口より出でたるこの助言は、貪欲にして残忍な恐るべき西洋物質主義に反対し、「王道」なる語に現されたる東洋の徳と正義の哲学への訴へを現してゐる。これは自分達が東洋人の血と肉とを所有してゐることを忘れ、種族的誇りを捨て、自己及び祖先の特性を有せず、又西洋人が與ふる一時的にして、皮相な物質的利益の為及び没利害的なりといふ偽善的申込と交換に、東洋を西洋化せんことを提唱し、又白人は有色人種を軽蔑の念を以て扱ふことをよく知つて居りながら、東洋の同胞よりも白人を好むが如き東洋人に対しよき反省の材料を提供するものである。幾世紀かに亘る西洋諸国の圧迫の結果、東洋の弱者をして最も激しい西洋主義者以上に、西洋化されんことを願ふ種族的裏切者と変へて了つた。かかる人々は白人が東洋文明の全機構を毀損し破壊せんとするの手段媒介となる。彼等は高い精神主義の東洋文明には相応しくないものであるが、かかる人々は白人の保護国に於ても蔑まれる。彼等は東洋に於ける白人が内蔵せる商業上に於て拡大強化せんとするの邪悪なる計画、表面上現す追従的尊敬の上に於てのみ繁栄するのだ。彼等は東洋に於ける西洋物質主義に結びついた金の光沢に目眩めき、西洋が支配する以前に於ける巨大な東洋の諸帝国の基礎となつた、東洋3ピオ・デュラン人の不屈の精神たる自己放棄の精神を失つてゐる。寧ろ彼等は西洋諸国の支持が無くなれば、その国は経済的、社会的、文化的に没落するものなりと恥もなく予言するのだ。彼等はその種族的誇りは西洋化された東洋人として名を揚げんとの思ひで窒息させられてゐるので、自国民及び自種族に対し、積重ねられた毎日の侮辱には気がつかない。このやうな孫逸仙の意味深き言葉は、前記の不幸なる東洋主義の裏切者を種族的に本来の地へ還らしめんが為に発せられた言葉であることは疑ひ無い所である。

この種族的裏切者は、比律賓に於けるが如く、夥しく多数存在する所は無いであらう。比律賓人は西洋人の眼を以て自国を眺め、誇らかに西洋の文化文明を吸収した唯一の東洋国家として自らを区別する〉

さらにデュランは、〈今や比律賓は、幾世紀かの絶えざる闘争の後、喪はれたる自由を再び獲得せんとし居れるを以て「東洋に還れ」の運動を発足するは、すべての比律賓人の義務である。幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さればならぬ〉と訴えている。まさに、このデュランの言葉は、望月の精神ときれいに呼応していたのである。

戦後も貫かれたデュランの日本精神

フィリピン青年の指導に挺身した望月は、一九四四年五月二十二日、フィリピンで戦死した。その半年後、マニラのメトロポリタン劇場において、フィリピン青年一千有余名が敢然と蹶起し、「国柱会」を組織した。これ
を主導したのが、デュランであった。そして彼は、日本軍占領中には内務次官、対日協力会理事長などを務めていたのである。

このため、戦後は対日協力者として苦難の時期を過ごさねばならなかった。ホセ・ラウレル、ホルヘ・B・ヴァルガスらの要人とともに、約十四ヶ月の間、投獄されている。

しかし、一九四七年にマニュエル・ロハス初代大統領によって釈放されると、デュランは再び政治を志した。一九四九年には、郷里アルバイ地区から下院議員選挙に出馬し当選、ナショナリスタ党の有力な幹部となり、銀行通貨委員会委員長、外務委員会委員として華やかな議会活動を展開した。特筆すべきは、彼が日本精神を戦後も捨てなかったことである。金ケ江は、振り返る。

〈戦後問もなく二番目の新夫人を同伴、来 日したことがある。その時は、まだヒリッピン大使館がなくて、ヒリッピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏はわたしの顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。

「ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、 いったいどこへ消えてしまったのかね ?!」

君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裡にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱のなかで混迷している日本の姿に接して、はかなくも、音をたてて崩れ去ったものらしかった。その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。

同氏は、かねてから新夫人に向かって、日本ほど素晴らしい国はない、と口をきわめて礼讃し、わがことのように自慢していたという。

「日本の善良な国民は、天皇陛下をうやまうこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かってさい敬礼するし、また日曜日には、ヒリッピン人が教会へお詣りするように、市民たちは朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこに跪ずいて両陛下を遥拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本よりほかにはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか」

ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで、「お前は、三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。わたしは、これから二重橋へ行って、両陛下を遥拝してくるから」

そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が、二重橋まで来てみると、脆ずいて遥拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで、楽しそうに散歩している意外な光景が限に映り、まるで、マニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、「ここが日本の二重橋か......」と、思わず口走しったというのである〉(中略)デュラン氏は、名状しがたい気持で宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを語りながら、「ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ」と、こぼしたことがあった〉

同時に、デュランは戦後も愛国精神を堅持した。戦前小磯内閣の大蔵大臣を務め、戦後日本国主席全権大使としてフィリピンとの賠償交渉にあたった津島壽一は、次のように書いている。

〈デュランさんは親日家であったが、その 根本の思想はフィリピン民族主義者、フィリピン愛国家として教育、政治の部面に活動したのであり、そして、そのためには日本と親しくするのがいいという考えの持ち主であった。従て国語についてもタガログ語を奨励した。デュランさんの議会におけるタガログ語の演説などは堂々たるものであったそうだ。(私にタガログ服の着用を推奨したのも、こういった主張のあらわれだと解釈すべきであろう)(『芳塘随想第十集』芳塘刊行会、昭和三十八年)

百八人の日本人の命を救ったデュラン

ところで、一九四五年十月にマニラで日本のBC級戦争犯罪人に対する軍事裁判が始まっていた。一九四七年四月に最終判決が下され、百七十七名が有罪判決を受けた。山下奉文陸軍大将ら六十九名が死刑判決を受けた。終身刑の判決を受けた三十三名と有期刑の判決を受けた七十五名(合計百八名)は、モンテンルパ近郊のニュービリビット刑務所に収容された。これに最も心を痛めていたのが、デュランである。彼はニュービリビット刑務所を訪れ、収監されていた日本兵から手紙をゆだねられた。この手紙を持参し、一九五一年十二月二十四日、デュランは来日した。新井恵美子氏の『死刑囚の命を救った歌』には、デュランが、収監されている日本兵たちの留守家族と対面する様子が描かれている。

〈(一九五二年)一月十日、デュランは留守 家族と懇談し、モンテンルパの様子を語った。その時、死刑囚の鳩貝吉昌の次女礼子ちゃん(十二歳)がデュランに語りかけた。

「おじさん、私が生まれてからまだ一度も 会ったことのないお父さんが......」と話し始めて、声にならない。デュランは「お父さんに会えるよう努力しましょう」と礼子ちゃんに約束した。「皆さんの気持ちはきっとフィリピンに伝えます」と重ねて約束したのだった〉

ちょうどその頃、後に「あゝモンテンルパの夜は更けて」をヒットさせる渡辺はま子は、巣鴨の拘置所の戦犯慰問活動を通じて親しくなった教誨師の関口慈先師の紹介で、デュランと対面していた。そして、はま子はニュービリビット刑務所に収監されている日本兵のことを初めて知る。同年六月、はま子は楽譜と短い手紙が入った一通の封書を受け取る。楽譜の題名は「モンテンルパの歌」。作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。代田も伊藤も、マニラ軍事裁判で死刑判決を受け、ニュービリビット刑務所に収監されていた日本兵である。「モンテンルパの歌」は、刑務所に収監されていた日本人の、日本への望郷の念を込めた曲だった。「モンテンルパの歌」を発案したのは、処刑の瀬戸際に立たされていた日本兵の助命活動に挺身していた、真言宗の僧侶加賀尾秀忍。はま子は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、『あゝモンテンルパの夜は更けて』が発売されることになる。

一九五二年十二月二十五日、はま子はニュービリビット刑務所を訪れ、慰問のステージで『あゝモンテンルパの夜は更けて』を披露した。

(一)モンテンルパの夜は更けてつのる思いにやるせない   遠い故郷 しのびつつ涙に曇る月影に優しい母の夢を見る

(二)燕はまたも来たけれど恋しわが子はいつ帰る母のこころはひとすじに南の空へ飛んで行くさだめは悲し呼子鳥

(三)モンテンルパに朝が来りゃ昇るこころの太陽を胸に抱いて今日もまた強く生きよう倒れまい

やがて、日本兵たちも一緒に歌いだし、大合唱となった。慰問のステージの終わりに、デュランは、「君が代をお歌いなさい。私が責任を持ちます」と言い、一同は起立して祖国の方に向かって歌い始めたという。

 『あゝモンテンルパの夜は更けて』大ヒッ トによる助命嘆願の署名、関係者による粘り強い努力の結果、ついに一九五三年七月、フィリピンのキリノ大統領の恩赦により、収監されていた百八人全員が釈放された。キリノ大統領は、夫人と子供三人を戦争末期に失ったが、「自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである」との声明を発出した。

デュランは、一九五七年七月に来日した際に脳出血に罹り、荻窪の東京衛生病院で三カ月間療養した上でフィリピンに帰国した。しかし、その後も健康が勝れず、一九六一年二月二十八日、マニラ郊外の自宅で亡くなった。金ケ江は次のように書き残している。

 「日本へも来日したことのあるファニタ夫 人は、デュラン氏の亡きあと、アルバイ州の選挙区の人たちに推されて、下院議員に連続当選しているそうだが、これを見ても、デュラン氏がいかに人びとに人望があったか、想像されるのである。人間の真の価値というものは、その人の死後に決まるものだ、とよく言われるが、このデュラン氏などは、生前よりむしろ死後において、その価値が再認識された一人ではあるまいか」