記事紹介【大亜細亜・第三号】橘孝三郎の大亜細亜文明論 坪内隆彦

2017年08月09日

本稿では、農本主義思想家として知られる橘孝三郎の思想形成過程を見た上で、彼の大亜細亜文明論を紹介したい。

橘は明治二十六(一八九三)年三月十八日、水戸市上市馬口労町に父市五郎、母もんの三男として生まれた。家は紺屋業を営んでいた。幼年時代、橘は外祖父の馬之丞から論語や孟子を叩き込まれた。また、馬之丞が住んでいた瓜連には楠公ゆかりの瓜連城があり、橘は馬之丞から、耳にタコができるほど、楠公の話を聞かされたという。若くして、國體観を培ったのである。明治三十九年九月、橘は水戸中学に入学、当初文学に傾倒したが、やがて哲学書を読み耽るようになる。学校の授業にはほとんど出ず、英語を勉強するために図書館に通い、『ジャパンタイムズ』に挑戦、独学で英語力を身につけていった。橘は、大正元年九月、一高文科乙類に入学、猛烈に勉強を開始した。原書を読むために、すでに身につけていた英語に加えて、ドイツ語とフランス語に取り組んだ。そのときには、通常の立身出世という目的が念頭にあったのであろう。彼は語学力を生かして、デカルト、カントを経て、ヘーゲルへと進んだ。ところが、彼が到達した思想は、彼を功利主義、立身出世主義から遠ざける結果をもたらしたのである。彼は、ロバート・オーエン、トルストイを読み、さらにウイリアム・ジェームスに行き着き、それをきっかけにアンリ・ベルクソンに惹かれるようになった。そんな橘をとらえたのが、幼少時代からの友人林正三から紹介されたミレーの「晩鐘」だった。「晩鐘」は、教会から聞こえる夕刻のアンジェラスの鐘の音色に合わせ、死者へ祈りを捧げる農夫婦を描いた作品である。橘は、「アンジェラス(天使)、あれこそ本当に人間の生きる道だ。ミレー、彼こそ本物の思想家なんだ。一夫一婦天地の恵みを心から受けて、心から生きぬく。心から神に感謝して生きぬく。そこには争いもない、いつわりもない。愛と誠を尽くして、神に仕える。これが真の人間のあるべき姿なんだ。できたら自分もそう生きたい。あのように生きたい」と、林に語るようになったという。彼の価値観を大きく転換しつつあった。「一高なんか何だ」「真理に生きる自分には、名誉栄達の肩書きなんかいらない」という気持ちを抱くに至り、大正四年三月に一高を去った。そして、同年十二月には茨城県東茨城郡常盤村(現在の水戸市新原町)で農業を始めた。ただ、農業を始めたとはいえ、効率重視の側面もあった。だが、大正六年秋のある日、彼は周囲の農園に雑草が生えていないことに気づき、精農といわれている人たちが、どのようにして雑草を取り除いているかをじっくり観察するようになった。雑草をなくすためには、鍬で適度の深さで土壌を耕し、それを鍬でまたすくう。それを何度も繰り返していた。こうして、橘は一本の鍬での作業を非能率と考えることが誤りであることを悟った。さらに彼は、農作業を通じて、ただひたすら
対象に尽くせば、自然はそれに素直に応えてくれることを実感し、改めて農業に人間の生きる本当の姿を見出したのである。橘は、昭和四年十一月二十三日、農民に愛郷精神を自覚させ、団結を促すために、愛郷会を設立した。その発足宣言は次のように謳っている。 「天地大自然の恩恵と人間同志の団結、即ち土と隣人愛、そこに我等が心から希い求むるふるさとがある。この我等が心から希い求むるふるさを求むる心こそ、我等の内に光って我等を導く愛郷の真心に外ならない。しかもこの愛郷の心、この真心、そしてこの愛郷の真心こそは、根源に於て神より出でたものである」そして昭和六年四月には、「日本更生の農本的大道と人生のふるさと土の愛護と兄弟愛の本義と、人間生活の本来の姿勤労生活とを教え且つ体得せしむべく」として愛郷塾を設立する。塾設立の趣意書は、「今様寺子屋」
を起し、集めた塾生と、「真心のありたけを捧げ受けつ、共にもろ共に生きて行く」こと、中学校程度の数学物理化学博物歴史農業大意農業簿記製図を教え、室外では家畜に親しませること、さらに、「家族主義的独立小農経営法」=「愛郷農法」の原理と実際を伝授し、日本の農村に応用さるべき農村学の大意を理解させ、芸術教育に最も意を注ぐと謳っていた。なお晩年に橘は、『天皇論』全五巻(第一部「神武天皇論」、第二部「天智天皇論」、第三部「明治天皇論」、第四部「皇道文明優越論概説」、第五部「皇道哲学概論」)執筆に全身全霊で取り組んである。松沢哲成氏が指摘するように、橘は天皇論において、「ベルクソン哲学は皇道哲学に近い」とも書いていた。以下、橘の大亜細亜文明論を示す、『日本愛国革新本義』(建設社、昭和七年)の一節を引く。  〈私は...タゴールの言葉を思ひ出します。 即ち西洋文明は『都の堡塁』の内側で育つたといふ事です。換言すれば近世資本主義西洋唯物文明なる歴史社会的結晶は都市を中心として結晶されたものであるといふ事です。従つてその創造群は市民に外ならんといふ事です。同時に此資本主義西洋唯物文明は鈍粋に、 橘孝三郎22ヨーロツパ的なものであつて東洋のそれとは全く文明の本質形相を異ならしめて居るという事に注意していたゞかねばなりません。勿論東洋にも都市と称せらる可きものが古からあつたにちがいありません。然しそれは地中海沿岸に発生発達した都市とは全く本質を異ならしめておるものゝみです。又従つて西洋唯物文明の結晶の中心たりし如き都市と、その創造の原動力であつたやうな市民は存在しておらんのです。かやうな点に就てもタゴールはなかなか要碩のいゝ物の言ひ表はし方をしております。彼はインドの文明は森林文明であり、インド人の生活は森林生活であつて、天地大自然の中から生れたものだといふ意味の事を申しておる。同様な事柄が支那に就ても申し得るので、支那にしろインドにしろその社会は常に大自然を基礎としておるので、換言すれば農耕を本としておるのでして、西洋の都市中心のものとは全く異なつてる本質と形相とを凡ゆる点で具備しておるのであります。フエニキアやギリシヤの古代のものから始まつて地中海沿岸に発達した都市は農耕を本として成立したのでは少しもないのです。それは...通商貿易を事として、むしろ農村又は農村国に寄生することによつて発達成熟してまいつたのであります。市民と称せらるる人々の考へ方から、攻治の仕方から何から何まで農村を土台として成立して居る東洋の文明とは全く異なつておるものを示しておるのであります。タゴールが申しますにギリシア人は物を考へるのに分け隔てをするといつておりますが、味ふべき言です。此所でかうした議論に深入りす可きものではございますまいが、少しく重大ですからその一例を取つて申し上げてみませう。例へばギリシア人の言ふロゴスといふのは思弁的精神を申すので、すべて物事は弁証法的に過程し且つ創造されて行くものだといふやうな考ヘ方をしておつたのです。之れを東洋の方に比べると全く格段な相違が生れて来ます。例へば仏教の方のネハンの思想とか、インド教のヴエダの思想とか、儒教の仁とか、キリストの天国の福音とかいふやうな、人々が全く自他の区別を超脱して人々相互は勿論、大宇宙に渾然として融合一致し得るやうな境地を開拓する如き思想や生活経験から非常に遠いのです。殊に文芸復興期を経て宗教改革を通過し、大陸発見から、重商主義時代に入り、やがてフランス革命からイギリス産業革命を見て近世資本主義がロンドン中心を以て発達するやうになつた近世資本主義唯物文明結晶下に於けるヨーロッパは全く東洋的文明とかけ離れたものを創り出してしまつたのであります。即ち思想に於ては唯物的個人主義思想が基調となつて、従つて唯物的個人主義的自由闘争主義となり、弱肉強食主義となる。更にこのことは理智至上主義を探り、情的徳性の美を忘れて科学は万能の威を振ひ得るものの如くに偶像化されてゆく。かくて人々は唯々物質的利害関係を中心としてのみ烏合の集団生活を通商貿易の中心地、金融の中心地を撰んで大都市的形態によつて形造るやうになると同時にこれを中心として一切の社会関係を規定しつゝ社会過程を動かすに至つたのであります。この辺の具体的事実は何より大東京で目撃、体験し得るのが、我々の悲しむ可き現状と申さねばならんであります。即ち我々は相愛観念を忘れた。相互信頼を捨てた。すべては徹底せる個人主義、理智主義、営利主義、売買主義云々、云々。そして大東京をかざる大デパートや、大新聞や、大銀行や、大ビルデイング等々は何を我々に語つておるのでせうか。こんな愚問を繰り返す事は更に無礼を重ぬる上に余裕なき時を潰す以外の何物でもありますまい。よしにいたします。たゞ之れを、杳として夢の如くではありましても、唐虞三代の名によつてのこされてる東洋的原始共産体の農本社会に比べましたら、人間生活の本然に訴へてどんな感がいたしませうか。いや、原始を今問ふておる時ではありません。此悲しむ可き状態を我々は一刻も早く何とかせねばならんのであります。そして我身は先づ近世資本主羲唯物文明の超克を力説高唱する次第です。それ自身東洋の真伝統精神に還ることであります。東洋の真伝統精神に還つて、烏合的近世世界都市中心の資本主義社会を根本的に消解せしむるに足る、完全全体国民社会を築き上げる事より外ないと信ずる者であります。東洋の真精神に還つて、世界的大都市中心に動かされつゝある個人本位的烏合体的、寄合所帯的近世資本主義社会を超克、解消し得るに足る、国民本位的、共存共栄的、協同体完全国民社会を築き上げる事外ないと信ずる者であります。かくてこそまた虐げられたる東洋を西洋の手より解放し得るものであると同時に、西洋をも救済し得るものと申さねばなりません〉ここには、タゴールとともに、岡倉天心の大亜細亜文明論との共通性が確かに認められる。むろん、橘の議論には東西文明の本質をやや単純化し過ぎている部分もあるように感じるが、西洋近代文明の成り立ちとその弊害を考え、大亜細亜文明復興の筋道を考える上で、非常に示唆に富んでいるのではなかろうか。