記事紹介【大亜細亜・第三号】玄洋社の源泉、加藤司書 浦辺登

2017年07月28日

玄洋社は、福岡藩家老であった加藤司書を源泉とし、西郷隆盛の精神を継承するといわれる。西郷隆盛については「敬天愛人」という言葉とともに、多くの人々の記憶にある。しかし、加藤司書については、西郷と同時
代において活躍しながらも、無名に近い。地元福岡ですら、平野國臣は知っていても加藤司書の知名度は低い。そこで、今回、この加藤司書について述べてみたい。

東洋経綸の源流に連なる加藤司書

加藤司書という人物は、幕末維新史において抹消された存在といっても過言ではない。西郷隆盛とともに、第一次長州征伐における解兵において尽力したにも関わらず、史書には西郷の名前のみが残る。「八月十八日の
政変」、いわゆる文久三(一八六三)年八月十八日のクーデターで京の都を追われた三條実美以下五卿を福岡藩で引き受けた立役者でもある。筑前勤皇党の首領でありながら、配下の月形洗蔵や早川勇の名前は知られるが、なぜか、加藤司書の存在は記憶に残らない。しかし、加藤司書という人物を俯瞰した時、東洋経綸(東洋の安定、興隆)において、西郷隆盛、横井小楠(熊本藩)と同列に、その源流にいることが見て取れる。それは、時代を広く、大きく見た時に初めてわかる。中国革命、いわゆる孫文の辛亥革命にまで広げて眺めてみるとよく理解できる。孫文、黄興など中国の革命党のメンバーは日本の明治維新を高く評価していた。孫文の蔭になって存在感が薄いが、黄興は鹿児島まで赴き、西郷の生き方、精神に心服したひとりだった。その西郷に傾倒した代表的な人々の名前を列挙すると、荒尾精(陸軍参謀本部、漢口楽善堂、日清貿易研究所)、平岡浩太郎(東洋学館、玄洋社)、佐々友房(済々黌)、菊池九郎(東奥義塾)がいる。荒尾精は西郷の書生であり、平岡浩太郎は西郷を誰何したことから関係を密にし、薩軍に身を投じた。佐々友房は熊本隊を率いて薩軍に合流し、西南戦争後、熊本に済々黌を興し人材の育成に務めた。菊池九郎も西郷の書生として心酔し、故郷の青森県弘前市で東奥義塾を開き後進の育成に務めた。玄洋社の源泉である加藤司書、西郷や横井という人々が横一列に連なることで中国革命は推進された。その相関図を眺めた時、アジア主義を標榜する玄洋社が、なぜ、加藤司書を源泉に据えた背景がくっきりと浮かび上がる。

大正四年の奇跡

加藤司書の菩提寺は節信院といって、福岡市博多区御供所町にある。現在も加藤家の子孫が寺を維持しているが、大正四(一九一五)年九月、この節信院で信じがたいことが起きた。老朽化した寺の改築にあたり、加藤家の墓所を改葬している時だった。一基ずつ、墓石を移動させ、骨の一片でも粗末にできないと墓が丁重に掘り返された。長い年月を経た加藤司書の墓には遺骸を納めた甕があり、それが人夫によって慎重に地上へと引き上げられた。すると、甕の底に何かが見える。司書公の直孫であり節信院住職加藤輔道師が甕に手を差し入れ、触れるものを取り出した。それは司書公が切腹を命じられた際に身につけていた白羽二重の袷(絹裏地の和服)と下着だった。骨のひとつ、毛髪の一筋も見当たらない中、糸のほつれも、破れも無く、当時のままで現出したのだった。西洋の科学によって世の不思議が解明される時代に、説明のしようのない現実が表出したのだった。五十年の歳月を経た奇跡は瞬く間に近隣、遠方へと伝わり、一目、袷を見ようと人々は節信院に押し掛けた。

嘉永六年の活躍

加藤司書公は文政十三年(一八三〇)三月五日、福岡大名町堀端(現在の福岡市中央区)に生まれた。加藤家は古くから福岡藩の重臣だったが、司書公自身もわずか十一歳で藩の中老に加えられた。その司書公が加藤家当主となった頃、日本を取り巻く環境は西洋列強に脅かされていた。長崎で交易を行なっていた清国商人がアヘン戦争を報じてきた。イギリスが強力な武力を背景に、アヘン取引を拒む清国を侵略したのだった。日本近海にも異国船が押し寄せ、西洋で唯一の交易国であるオランダまでもが開国を進言してくるほどだった。そして、嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸湾(現在の東京湾)に来航した。日本側の懸命の対応でペリーは立ち去ったものの、この一件から海防と近代的な軍備の充実が求められた。「異国船を打ち払うべき」「開国すべき」など、喧々諤々の論争が日本中に渦巻いた。そのペリー来航騒動の直後、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した。日本との交易、つまり、開国を求めてだった。この時、弱冠二十三歳の司書公は藩兵五百を率いて長崎港警備に急行した。長崎港は幕府の命により、佐賀藩と福岡藩が交代で警備する港だった。ロシア艦隊は表向き薪水を求めての来航だった。幕命では、異国船に薪も水も与えてはならなかったが、司書公は武士の情けとして給水だけは約束した。プチャーチンは給水に謝意を表しながらも、本来の目的である開国(交易)を要求してきた。司書公は、幕府の許可を得るには江戸との往復で十日や二十日はかかる。よって、要求には応じられないとして即座の退去を求めた。この司書公の一歩も退かぬ対応に、ロシア艦隊は出港していった。不思議なことに、このロシア艦隊との対応は幕府の川路聖謨の名前のみ、史書に記載される。福岡に帰藩した司書公は藩主黒田長 ながひろ 溥に一切の報告をしたが、恩賞として陣羽織と刀が与えられた。これは、長い福岡藩の歴史においても破格の対応だった。福岡藩は藩祖黒田
官兵衛(如水)、初代藩主黒田長政と血脈が藩主の座を占めたが、七代目以降は他藩からの養嗣子を迎えていた。第十一代藩主である黒田長溥も島津家から迎えた藩主だった。ゆえに、旧例を構わず、藩祖の頃から仕える加藤家の司書公を篤く遇したのだった。しかしながら、これは、他の家臣からの妬みになった。

元治元年の大功績と処断

安政元年(一八五四)、幕府は日米和親条約を締結した。ペリーによる強圧外交に屈した結果だった。この安政条約締結からの日本は激動の時を迎え、万延元年(一八六〇)三月に大老井伊直弼が水戸藩、薩摩藩の浪士に
暗殺された。文久三(一八六三)年八月に天誅組の決起、三條実美らの「八月十八日の政変」、十月に「生野の変」、元治元(一八六四)年三月には天狗党の決起、そして、七月に「禁門の変」と続き、八月には第一次長州征伐の議が起きる。禁門の変で長州藩は朝敵の烙印を押された。ここで幕府は諸藩に長州征伐(第一次)の命令を下した。福岡藩も討伐軍として長州に向かったが、事前に情報収集していた司書公は五百の藩兵を率いて福岡を出立していた。司書公は征長軍総督徳川慶勝が陣を構える広島に向かった。今は、国内騒乱の時ではなく、一丸となって外敵に立ち向かわなければならない。真の勤皇であれば、長州藩を討つのではなく、征長軍を解散させなければならないと徳川慶勝に説いた。すでに三十六藩の軍が集合していたが、司書公は征長軍参謀の西郷隆盛と図り解兵に成功した。数を恃んでの幕軍だったが、実際は厭戦気分であることを司書公は見抜いていた。とどめは、西郷が一万余りの薩兵を引き上げると宣言したことだった。この長州征伐解兵において司書公の名は史書に見ることはなく、西郷一人の策略と記される。しかし、司書公はこの征長解兵が成功した
喜びの歌を残した。それが今に伝わる『皇御国』であり、戦前は准国歌として称えられた。すめら御国の武士はいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心を君と親とに尽くすまで征長解兵における軍議で、長州に滞在する三條実美は遺憾ながら「浮浪之者共」として扱われた。朝廷から官位を取り上げられれば、ただの浪人風情に過ぎない。が、しかし、これは福岡藩領太宰府の延寿王院に五卿を安全に転座させる建前だった。五卿を迎えることは、常に幕吏の監視を受ける。これは、幕府との対立を避けたい福岡藩佐幕派の悩みの種であったことから、加藤司書率いる筑前勤皇党と軋轢を生じた。

筑前勤皇党と福岡藩佐幕派との軋轢

この福岡藩佐幕派は急激な変化への対応に遅れ、司書公を頭領とする筑前勤皇党との確執を生んだ。本来、勤皇でありながらも体制側に身をおかなければならない藩役人も多く、疑心暗鬼から藩内で対立が生じた。藩主黒田長溥は苦渋の選択として筑前勤皇党の処断を決めた。ここに、司書公は藩政を乱したとする責を負い、切腹を命じられた。これが福岡藩史に残る「乙丑の獄」という政変である。司書公の行動は一藩の事情よりも、皇国全体の行く末を考えてのことだった。その尊皇精神の奇跡が半世紀後に墓から出現した羽二重の袷だった。高杉晋作との会談封建的身分制度の厳しい時代ではあったが、司書公の上下を問題にしない態度は長州の高杉晋作に対しても同じだった。元治元年(一八六四)十月末、筑前勤皇党の中村圓太に導かれた高杉が密かに筑前福岡藩入りを果たした。追い詰められる長州藩、身の安全が保障されない三條実美公ら七卿の保護を求めての事だった。野村望東尼の平尾山荘は現在、福岡市中央区に復元されている。周辺は住宅が建ちこみ、往年の面影を偲ぶこともできない。しかし、公園として整備され、復元された山荘を訪ねると、ここで数多の志士が皇国の行く末を熱く語ったのかと思うと背筋がピンと伸びる感がある。長州藩の代表とはいえ、福岡藩家老の前では身の置き所に苦慮した高杉と推察する。しかし、身分差を超え、司書公は皇国の志士として高杉と意見を交わした。中村圓太、月形洗蔵、鷹取養巴、早川勇、筑紫衛などが控えるなかで会談は行われた。高杉は司書公の強力な後ろ盾を得て、再度、長州へと帰藩し、藩政の主導権を得ることができた。司書公にとって、すべては、三條実美公らの身の安全が優先だった。歴史に「もし」は禁物だが、この時、高杉が司書公との会談に成功しなければ、維新の大業はどうなっていたかわからない。史書において、この重要な場面が抜け落ちているのを淋しく感じる。

太宰府天満宮に遺された幕末史

太宰府天満宮(福岡県太宰府市)は、学問の神様として全国に知られる。この太宰府天満宮の参道右手に「松屋」という茶店があり、店の一角に「旧薩摩藩定宿」と記された木製看板がある。手跡は清水寺(京都)の貫主である。菅原道真公を祀る太宰府天満宮に、なぜ、と誰もがいぶかしがる。さらには、その左手頭上には「維新の庵」と金文字で彫りこまれた大きな木製看板が掲げられている。圧巻である。店に入ると、西郷隆盛、大久保利通、平野國臣、勤皇僧月照の書簡レプリカが壁にかかっている。どうして、幕末史に登場する人々の名前がと不思議に思う方は多い。この松屋は旧薩摩藩の定宿であるとともに、薩摩に落ちていく前の月照が匿われた場所だった。緩い上り坂の石畳の参道を進むと、目前に壮麗な門構えが見える。神仏混交時代の名残である宿坊の延寿王院である。今では、太宰府天満宮宮司の自宅として利用されているが、ここに三條実美以下五卿が慶應元(一八六五)年一月から約三年、滞在した場所だった。京の都を追われ、長州に西下した公卿たちだったが、さらに、その安全を確保するために加藤司書が手配した先でもある。この延寿王院の右手に、案内看板がある。多くの観光客は、この看板にまったく気づかず、素通りしてしまう。しかし、その看板には西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬までもが訪
ね来たと記されている。そして、維新の策源地でもあったと。つまり、筑前勤皇党が薩長和解に持ち込んだ結果が薩長同盟である。現代、フィクションとノン・フィクションとが混同して、理解されていないのは嘆かわしい。明治維新の大きな目標、目的は、押し寄せる欧米勢力に対峙し、排除することにあった。さらに、東洋経綸(東洋の安定、興隆)と続く。このためには、徳川家という私ごとに固執し、日本という公の皇国を護ることを考慮しない幕府を倒さなければならない。その倒幕の策源地として三條実美ら五卿を太宰府に迎えたのが、加藤司書と筑前勤皇党だった。東洋経綸という大きな枠組みで俯瞰したとき、福岡藩の加藤司書の存在は無視できない。源流として西郷隆盛とともに、歴史書に大きく記されるべき存在である。ゆえに、アジア主義者として行動した玄洋社は精神を西郷隆盛に求め、源泉として加藤司書を仰いだのだった。加藤司書なくして、維新史は語れず、東洋経綸も語れないことを覚えておいていただきたい。