記事紹介【大亜細亜・第三号】近世東洋史 小野耕資

2017年07月31日

「東洋史」の成立

文明開化によって近代科学を受け入れた明治日本において、「歴史」と言えば欧州の歴史を指す時代があった。それが那珂通世や内藤湖南、桑原隲蔵らによって東洋史が編まれることになった。「東洋」という領域観念は日本で生まれたということもできるのである。世界史は元朝から始まるともいわれる。それまでは各国が独自に歩みを続けていたものが、元朝の征服によって一つの歴史を歩むようになったからだ。同じように、東洋の各国が良くも悪くも互いに似たような運命にさらされるのも、元朝から始まる。本稿では、わたしの力不足により東洋各国を網羅できていないが、支那地域を中心とした東洋の歴史を見ていきたい。

中華世界とはどこか

現在の中華人民共和国の領土は歴代の伝統的な王朝の版図とは異なる。ではなぜ現在のようになったのだろうか。伝統的支那の版図は大体北は万里の長城を境目としている。万里の長城は紀元前の秦(chinaや支那の語源
でもある)の始皇帝の時代に作られた。現在のように本格的に整備されたのは明朝のときである。もっともこの秦朝自体が西方を起源とする王朝であったため、一概にいうのは危険であるが、基本的に支那王朝は漢民族が主体となってきた。それが大きく変わったのがチンギス=ハンから始まるモンゴル帝国、つまり中原を統一した後は元朝と呼ばれる時代である。元朝の歴史に入る前に、中華思想について書かなくてはならない。中華思想では、中華王朝は天下、つまり世界の支配者であり、天子(皇帝)は全人類の代表とされた。中原は中心であり、周りは野蛮な地域である。野蛮
な地域は中原の主(天子)に貢物を行うことで初めて「国」に昇格する。中原に国を構えるのこそ「中国」である。この「中国」は、古代「中国」においては黄河流域のことであった。それが長い歴史の中で拡大して、だいたい黄河と長江の間の地域を指すようになっていったのである。「中国」は儒教文化の中心ともされた。もっとも、儒書のなかにいわゆる中華思想的部分は多くない。むしろ支那国内の郊外を指して野蛮と言っていた節がある。そうした地域的、経済的区別が対外関係に徐々に変化していったのである。

元朝の成立と崩壊

西暦一二七一年、元朝が成立する。元が広大な領土をとったことで世界の歴史、そして東アジアの歴史は新たな局面を迎えることになる。今「元」と書いたが、モンゴル帝国のうち元は中原を統治した部分のみの名称であ
る。西方は三つの汗国が統治した。元では従来中華世界で行われてきた科挙による人材登用に限定することをしなかった。モンゴル帝国の支配領域は全ユーラシア大陸にわたったため、支那地域にも世界の文化が流れ込むことになった。元の統治はある意味では支那文化の軽視のもと成り立っていたが、それゆえに元の軍事力が弱まればその体制は崩壊してしまうこともまた意味していた。元朝は東は朝鮮、西は東欧まで勢力圏を伸ばしたが、百年持たずに中原の支配を明け渡すことになる。元の後に成立したのは、漢民族の明朝である。

明朝の性格

紅巾の乱などの大反乱を経て、漢民族による王朝、明が建国される。しかしモンゴル帝国は滅びたわけではなくモンゴルに撤退しただけであり、また西方の汗国は存続していた。元朝の撤退は漢民族の中原支配を復活させたが、一方で元は撤退しただけであったので明朝は自王朝の正統化を求められた。そのため明朝は万里の長城を復活させ、元が支配者としての徳を失ったから天が元に代わって王位につけたと説明した。つまり易姓革命説を公認したのである。逆にいえばこれにより明朝は元の支配の継承を主張することになった。したがって明にとっての「中国」の領域は支那地域に限定されることなく、モンゴル帝国が征服したすべての領域に拡大されたのである。ただし明に軍事力が足りなかったため、それは達成されることはなかった。統治体制は元朝の頃とは変わり、支那人、支那文化による統治をおこなった。科挙は行われ、支那文化単一主義的な政策を行った。モ
ンゴルのことは「韃靼」と呼ぶようにした。これは勿論中華思想的蔑称であり、また古くからの中華思想的蔑称である「蒙古」の使用を避けようとする狙いもあった。

女真族の台頭

明朝が元朝の支配領域を継承できないままに、東方には女真族が台頭してきた。女真族はツングース系の民族で、半農半猟の民族である。高句麗も女真系の民族だという説もある。満洲地域には渤海という国も昔できてお
り、日本との交易も盛んであった。日本が平安時代から鎌倉時代に移ろうとする頃、女真族は「金」という国を立ち上げた。それは百年余りをもってその歴史的使命を終えた。だが、女真人が東洋において歴史の主役に躍り出るのはその後であった。ちょうど日本では徳川家康が江戸幕府を盤
石ならしめたころ、女真人のヌルハチは大金国を立ち上げた。俗に「後金」と呼ばれ、のちに「清」となる国の始まりである。女真人はこれから朝鮮北部、沿海州、満洲という伝統的領域から大きく飛躍し、東洋史を作ることになる。ヌルハチの一族は代々明に仕える役人であった。明は満洲地域においては間接的な支配にとどめ、実質的には女真人が役職を世襲する形で切り盛りしていた。そのヌルハチが彼の人生の晩年になってようやく女真人の勢力統一に成功し、明に反旗をひるがえしたのであった。ここにモンゴルに撤退して滅ぼされずにいた元の末裔モンゴル朝が関与してく
る。たびたび述べるように元が中原から撤退しても、まだモンゴルは勢力を持っていた。これを「北元」と呼ぶ。その北元も王朝が終わる時がきた。後金はモンゴルの一部を抱き込むことに成功し、東部モンゴルを平定した。そのとき北元の皇帝から元朝の玉璽を献上されている。つまり後金はモンゴル帝国の正統後継者として元朝の復活という大義名分を手に入れたのである。明朝が軍事力のなさから支那地域に閉じこもっているうちに、元朝を継承する王朝がもう一つ誕生してしまったのだ。清朝の成立後金は元を継承したことで、女真人だけのものではなくなっていった。ヌルハチの息子ホンタイジは大金皇帝となった十年後、国号を「清」と改める。そして清国皇帝として即位したのである。ホンタイジが清の皇帝とし
て即位するために、女真人、モンゴル人、漢人などに合同で推挙される形を取った。これにより清は正式に元を継承して中原を支配するという大義名分を得たのである。ちなみにこのころより「女真人」というより「満洲人」という言い方をするようになっていく。満洲の語源は諸説あるが、文殊菩薩から来ているという説が有力なようだ。清朝の皇帝は文殊菩薩の化身であるという仏教界との集合も生まれていくのだ。これはのちのチベットの位置付けにおいても重要な意味を持つ。清は元朝を継承したので、朝鮮を元時代の高麗と同じように属国視し、服属を要求した。しかし朝鮮は漢民族でもない王朝に服属はできないと拒否。これにより清朝から度重
なる侵攻を受ける。そして朝鮮の支えとなっていた支那南部に勢力を温存していた明朝もまた、清からの攻撃を受けて衰えていく。

唐入り

話をわが国に転じて、少し時間をさかのぼり豊臣秀吉の「唐入り」について述べたい。「唐入り」に関してはさまざまな理由が言われているが、昔から根強いのが、秀吉が愚かだった、息子を失った悲しみから行ったのだ
という説である。だがどの時代でも長の鶴の一声だけでは動かない。ましてや個人的悲しみなどで軍が動かせると思う方がおかしいのではないか。当時アジアはスペインの脅威にさらされていた。スペインからの宣教師とは、実は侵略の先兵である。まず宣教師、次に商人、最後に軍人というのが当時の西洋のやり口である。秀吉は海外貿易には好意的であったが、宣教師は伴天連追放令を出すなど好意的とは言えない。スペイン宣教師などは、支那人や日本人を奴隷として海外に売り飛ばしており、秀吉はそのことを知ってスペインを脅威に感じたとも言われる。スペインからの侵略に備えるために、アジアの領土を必要としたのではないだろうか。当時侵略は英雄の条件であり、多くの領地を臣下に与えられるものが称えられる時代である。結局スペインがヨーロッパを重点的に見るよう国策を変更したこと。そしてスペイン国王が死んだことが重なり、アジアは西洋の侵略にひとまずさらされずに済んだ。だが、秀吉の唐入りにより明や朝鮮は衰えた。それは清朝の中原支配には大きな援護射撃となったのである。明朝の遺臣は、元朝に続き、清朝という今まで漢民族が蔑視していた民族に中原が支配されることが我慢ならなかった。したがって(元の前の)宋の時代に成立した朱子学の名分論を強く信じ、清朝への批判を展開することになった。わが国に来朝した朱舜水などもその一人である。果たして中華世界を支配する正統性は、民族にあるのか、それとも支配領域にあるのか。それは孫文の辛亥革命まで影響を与えるのである。

元朝と明朝の統一=清朝

清朝は明を滅ぼすと首都を北京に指定した。南方はまだ明の残党が残っていたためである。台湾で鄭成功が抵抗するなどしていたが、中原の支配をもくろんでおよそ四十年で清は全支那を統一する。清は支那を統一する過程で明の王権と元の王権を継承する形となった。つまり中原の支配者であると同時に、漢民族の代表であり儒教道徳の体現者(「中国」皇帝)と東洋諸民族の征服者(元朝皇帝)の両面を兼ね備えることになった。したがって清朝は元の領土の復活をもくろみ西方に進出するのである。まずは内蒙古にかぎらず外蒙古までをも支配した。さらに今で言うところの東トルキスタンである新疆、そしてチベットをも勢力圏に飲み込んでいく。チベットでは清朝の皇帝は文殊菩薩の生まれ変わりだとしてチベットでの世俗最高君主の座に就くことになる。ここに及んで清朝皇帝の立ち位置は、明朝皇帝(中華思想の中心)元朝皇帝(東洋の覇者)文殊菩薩の化身(チベット仏教での重要な支配者の一人)といういくつもの姿を兼ねたものとなった。ここで面白いのはチベットだけは「最高指導者の一人」にすぎないということだ。現に乾隆帝とパンチェンラマの会談は「対等」の様式で行われた。これは全人類の頂点として君臨する「中華思想の中心」の姿から見れば考えられないことである。しかし清朝皇帝という同一人物が異なる役割を同時並行でこなすこともあったのである。

清朝の統治体制

清朝の統治は大きく分けて直接統治と間接統治に分かれる。直接統治は万里の長城以内の「内地」、そして満洲である。間接統治は蒙古、チベット、ウィグル(新疆)である。直接統治の中でも内地と満洲は異なり、間接統治地域はそれぞれ統治文化が異なる。多元的構造を国内に持っていたのである。内地は州県制をしいた。内地人民は満洲族が直接統治する民であり、したがって辮髪が強要された。辮髪をしない者には科挙受験資格がなかった。満洲は八旗による統治であった。八旗とは満洲族伝統の狩猟、戦時の軍編隊のことである。モンゴルは遊牧社会に倣った部族ごとの統治が行われた。チベットでは寺院と貴族による支配が行われた。ウィグルではイスラム教を中心とした統治が行われた。つまり清朝の支那世界は内支那と外支那に分かれるということができる。内支那である満洲や内地は基本的には中華王朝社会であり、外支那であるチベットやウィグル、モンゴルは各自の伝統的統治形態にある程度のっとったものが認められたのである。清朝の衰退による転回 こうして地域ごとにさまざまな「顔」を使1314い分けることでうまく回っていたかに見えた支那世界であるが、アヘン戦争を契機に大きく揺らぐこととなる。アヘン戦争が重要だったのは、支那伝統の朝貢的外交から近代外交への転換を余儀なくされることになったからである。戦争に敗れることで支那は西洋に野蛮な国号をつけることができなかった。ただしそれは東洋の各国にまで適用されたわけではなかった。依然東洋の国には中華思想的外交関係が維持されたのである。しかしそれは支那の民には西洋に屈従している態度に映り、したがって清朝の体制は大きく動揺することになるのである。その有名なものは太平天国の乱である。それ以外にも各地で蜂起がおこった。しかしこのころは清朝にも体力があり、乱の鎮圧に成功している。乱を鎮圧すると清朝は統治体制の再建に臨むことになる。一般に洋務運動と言われるのがそれである。西洋の統治形態に倣った中央集権国家を基にした国づくりを目指したのである。腐敗した州県政の再建とともに、チベットやモンゴルなどの「外地」の間接統治の見直しが始まったのである。それは西洋の流れに沿って一元的な国民国家を支那にも作ろうという試みであった。しかしそれは「外地」の人たちから見れば「中華」が自分たちの文化を圧殺する光景にも映ったのである。改革はウィグル(新疆)から手を付けられた。直接統治と科挙の実施がウィグルでも認められたが、反発を呼び反乱が起こった。それの反省からかチベットやモンゴル、満洲では大胆に手を入れることはしなかった。しかしインドを通じてイギリスがチベットに通商を求めるなどして、それに関する条約を最高指導者の一人でしかないはずの清朝が勝手に英と結ぶなど、一元化はどの地域でも徐々に始まっていた。西洋に対しては近代的外交関係、東洋に対しては旧来の朝貢外交を行おうとしていた清朝だが、それが完全に通用しなくなったのが、日清戦争の敗北であった。日清戦争の敗北によって、良くも悪くも対等な外交関係が東洋においても行われることになった。日清戦争は朝鮮半島における影響力を争った戦争であった。日本は朝鮮半島に敵対的国家ができると安全保障がままならず、また海上交通の点でも、朝鮮半島は日本にとって重要な位置を占めていたが、それだけではなく、日清戦争は朝貢関係でない国家の対等な関係を求める戦争であった。清朝はアジアの朝貢関係の継続のため、日本はそれを破壊するため戦争を経なければならなかった。当時の日本の知識人が「文野の戦争」(文明と野蛮の戦争)と形容したのはそのためである。「文明」とは近代の対等な外交関係であり、「野蛮」とは前近代の華夷秩序的外交関係のことである。日清戦争に敗れた清朝はその前から行われていた制度改革をより一層進めようとする。日本を模範として、具体的には、近代産業の発達を促す、近代教育制度導入、官僚登用法の改革、警察の導入などである。そして清朝下で欽定憲法の作成まで検討されていた。近代法体系を備え、選挙、議会、司法や地方自治さえも完備した国づくりを目指したのだ。これを主導したのは康有為らである。しかし例えば選挙に関しては詳細な戸籍がないなど、体制の不備に苦しんだ。さらに内地以外の地域にまでこの改革は影響を与えた。満洲では漢人が次々と入植し、内地との一体化が進められた。蒙古は(新議会の)勅選議員にモンゴル王族が選ばれるなど国政への参与も求められ、また教育や鉄道の建設なども行われた。ここでも漢人が入植し、漢語使用が解禁された。チベットでも同様である。チベットは対英紛争も抱えていて、ダライラマ十三世が亡命するなど穏やかな状況ではなかったが、ここでも学校教育で漢語を普及させ、また一夫多妻制や鳥葬が禁止。儒教が導入され辮髪が強制された。チベットの文化や風俗は「野蛮」で「未開」とされた。このように周辺部にとっては清朝の一元的近代化は自分たちの文化への圧殺と表裏一体であった。康有為らの改革は清朝の領域内で一つの国民国家を作ろうとする試みであった。漢文化を中心としながらも多民族を統合する形が模索された。

清朝の一元化への反発としての「滅満興漢」

しかし当の漢民族はこれに対して不満であった。もともと中華世界で「野蛮人」だとみなしてきた地域の人間と同一の国家を作ることに対する反発は強かった。清朝にくみする漢人と与しない漢人が出たが、いずれにしても漢人主導の政治を求める声に変わりはなかった。より先鋭的な人間は滅満興漢を叫び清朝打倒を訴えた。その中心が孫文である。孫文は当初は清朝の改革に反発していたので漢民族のみで国を作ろうと構想していた。周辺部に関してはあまり関心が強くなかったという言い方が正しいだろう。なぜなら清朝の改革に反発した漢人を味方につける必要があったからである。「漢民族主体」を叫ぶことはそのまま「(清朝という)中華世界」で国を作ろうとする清朝への異議申し立てとなったのである。しかし辛亥革命の成功付近から「漢民族主体」の声は変節していく。辛亥革命が終わると、中華民国臨時政府が成立した。臨時大総統は孫文である。そこの臨時約法では国民は「中華人民」とされた。これは漢民族だけを国民の対象としていた頃から見て明らかな変質である。実は、孫文は、前は満洲など革命成功後は日本やロシアに売り払っても構わないと考えていた節があり、日本やロシアとも満州の売却を約束している。もっとも孫文のそうした大言壮語は有名だったようで、どこの国もまともに受け取らなかったようである。とにかく孫文の考える統治民族は「漢民族」から「中華民族」に変質している。

「中華」民国の成立

辛亥革命の成功は、当時清朝の有力な官僚であった袁世凱の裏切りなしではなしえなかった。袁は清朝最後の皇帝である宣統帝(のちの溥儀)に退位を促し、それを受け入れたことにより清朝は崩壊した。つまり中華民国は清朝から「中華」の支配者を譲渡されたことになるのである。かつて元朝が作り、清朝が継承した大帝国の「皇帝」は中華民国につながったのである。さて、清朝から王朝を継承したことで満漢蒙回蔵の領土を合わせて一大中華民国となった(回とはウィグル、蔵とはチベットである)。もちろん宣統帝退位前から孫文などには「漢民族国家主義」から「中華民族国家主義」への移行が見られる。しかしそれは「清朝の継承」を念頭に入れ始めたからと考えてよいだろう。そこで中華民国はさきほど書いた「清朝の一元的近代化」をも継承したのである。「清朝の一元的近代化」とは漢民族の風土に合わせる傾向があった。つまり「中華民族国家主義」も漢民族化であると言ってよい。むしろ国の支配民族が漢民族になったことでその傾向はより露骨になったと言えるかも知れない。中華民族国家主義は建前は「五族共和」であるが、その実態は漢民族化と言えるのである。それを強力に推し進めたのは孫文を排して権力を一手に握った袁世凱であった。袁世凱は大総統に就任すると自身の権限を強化し、半独裁政治を作り上げた。袁は孔子廟を造るなど儒教的政策も盛り込んだ。モンゴルやチベットは特別地域として中華民国を宗主とした衛星国のような位置づけとなった。袁において中華民国の大総統は清朝皇帝と似通った多元的な像を帯びることとなった。もちろん共和制の支那の国家元首であり、さらにモンゴル王族の盟主、そしてチベット仏教の保護者。この三つの立場を併せ持った。まさに清朝皇帝を継承する形で袁は大総統になったのである。その袁は「中華帝国皇帝」に推挙されたとして帝政復活をもくろむが、反発を買い撤回、失脚。そして失意のうちに死ぬことになる。これ以後しばらくの中華民国の大総統は求心力が低下し、支那全土を一つの権力で覆うことができなくなる。各地で軍閥が跋扈し、統一政府は有名無実化する。したがって各国は各軍閥の後援をすることで支那世界に影響力を及ぼそうとするし、また各軍閥も己の権力維持のためそれを望んだ。この頃、支那の知識人階級は日本に留学するのが流行であった。蒋介石や戴季陶、魯迅や周作人(魯迅の弟)などもこのころの日本留学組である。これらの人々は当初非常に親日的であったが、のちに反日に転ずる人たちである。地方の科挙失敗組が多かったこの人たちは支那に来ていた無名の日本人教師から「近代」的思想を教わり、日本にきた。「日本は西洋思想の中継地」と捉える一方で、西洋文化とはなじまない日本文化そのものも日本留学で学んでいった。たいてい日支同盟によるアジア主義を持って支那に帰ったのであるが、日本との国益の相違さらに共産主義への共感と反発により日支間はうまくいかなくなる。もともと中華民国とソ連の微妙な距離感も日本側の不信を招いた節もあるようだ。また、知識人の留学先が徐々に日本からアメリカに変わっていくあたりも親日から反日への転換として興味深い。周辺国の動き少しまた時間をさかのぼりこのころの支那周辺各国各地域の動きに注目したい。韓国は、日清戦争以前は閔妃(親日)と大院君(親清)で争っていた。お互いに政敵に勝つために外国の内政干渉もいとわなかった。袁世凱はすでに朝鮮の内政外交を左右するだけの権限を日清戦争前に有していた。半島内ではやや親清派が優勢だったが、日清戦争でにほんが勝ったことにより一気に親日派が優勢となった。ところが閔妃は清の勢力が弱まるとロシアに接近。ロシアの内政干渉を誘発した。日本側は金玉均や大院君などを担ぎ対抗し、外国の内政干渉を誘発してばかりの閔妃を、親日朝鮮人の指導のもと殺戮した。日露戦争で日本が勝ったとき、朝鮮半島は外国の内政干渉の誘発と戦争で焦土になっており、とても独立できる状態ではなかった。日本は韓国併合を行い自国の領土とした。しかしそれは戦前日本の興亜論者の大きな蹉跌であった。 台湾も日清戦争の勝利で日本領となる。台湾は 清末の洋務運動で近代設備の整備が始まったが洋務運動はすぐ挫折したため、実質日本主導で設備投資は行われた。総督府は当初武断政治を布いたがのちに文治政治に移行した。日本とともに東洋世界に大きな影響を持ち始めたのがソ連である。ソ連はロシア革命を行い共産主義国家として成立。各国はシベリア出兵をしたが最終的にはソ連を承認することになる。ソ連は外蒙古の独立を支援する軍事行動を行いモンゴル人民共和国を成立させた。そこでは急進的な社会主義政策が行われ、伝統文化は破壊されていった。また中国共産党もソ連の後援で勢力を伸ばし、国民党内でもマルクス主義に影響を受ける者が出始めた。蒋介石や戴季陶がそれである。ちなみに両名はのちに強烈な反共主義者になる。余談ながら孫文は「革命外交」と称し政府が変わったのだから前王朝(清朝)の結んだ条約はすべて無効であるとして一方的に破棄を通告するような、戦争を誘発しかねないかなり乱暴なこともやっている。それをした背後にもソ連の影響があると指摘する人もいる。チベットは相変わらずインドからくるイギリス と中華民国のはざまに挟まれて不安定な状況にあった。有力者がインドに亡命したり、軍事衝突までも経験している。いずれにせよ中華民国の統一的政府は孫文、袁世凱の死後は内戦で実質上崩壊している状況にあり、安定した社会基盤のない不安な状況になった。政府がないということは匪賊とか馬賊というごろつきの類が跋扈し、支那朝鮮地域にきていた日本人が被害にあうことも多かった。支那地域は混沌の時代となったのである。

満蒙独立運動と軍閥の跋扈

この時期の周辺各地の歴史としては満蒙独立運動が興味深い。辛亥革命後、宣統帝は亡命。日本租借地の旅順に逃れた。そして清朝復活を目指し蒙古王族と清朝遺臣が立ち上がったのである。ただし日本政府はこの運動に関し支援したり中止を命じたりと二転三転している。内政外交上の情勢の変化がその原因であろう。彼等は「支那分割論」を主張。ここでいう支那分割は要するに初期の孫文同様漢民族は漢民族、他の民族は他の民族で統治すべきという発想である。第一次満蒙独立運動は日本の参謀本部や川島浪速ら大陸浪人も支援したが日本政府が中止を命じたために頓挫した。英露との外交的妥協がその背後にあったと言われる。第二次満蒙独立運動は袁世凱の帝政に反対 する運動として行われた。しかし袁世凱の急死のため日本から資金援助が途絶え、中絶した。支那は各軍閥が跋扈している状況だった。日本は張作霖に肩入れしていたが、基本的に不干渉の態度であった。しかし張作霖は日本政府との取り決めを守らず自分の利益のために軍事行動を起こすなど、現地では張作霖政権に不満を漏らすものも多かった。また日本人に危害を加えていた馬族を裏で操っていたのは張作霖だと言われた。そこで張作霖は爆殺されることになった。国民革命で張作霖が負け、また蒋介石が満洲の日本利権に手を出さないことを約束したため、張作霖に肩入れしなくなったのである。

蒋介石の「国民革命」

軍閥が割拠し、なかなか統一されない支那。しかし蒋介石の荒療治によって統一されようとしていた。それが国民革命である。蒋介石の国民革命は中国国民党を母体とした。中国国民党は国民政府が武力的に政権を掌握し、党が暫定的に独裁をおこない、憲政が指導してから党を解散するとした。これは明らかに共産党の方法論を元にした蒋介石の革命論である。蒋介石は反共の人であったが運動方法論に関しては共産主義の影響をかなり受けていることがわかる。蒋は国共合作していた党を北伐、支那統一に向けるとともに共産党員を粛清する。共産党員の粛清を行った蒋は実質独裁を確立した。北伐では相当に乱暴な事をしつつも、張作霖爆殺事件で日本を恨んでいた張作霖の息子張学良も帰順させ、全国統一を成し遂げた。国民革命により党独裁体制を作り上げたのちは、孫文の三民主義に乗っ取った政治を目指した。孫文の三民主義とは「中華民族国家主義」であり「中華民族」と称して漢民族風を周辺各国に押し付ける体制であった。したがって北伐で自国領を踏み荒らされた列強と、国民革命で文化を踏み荒らされた周辺各国の利害が「蒋介石憎し」で一致することになったのである。

日支の争い

国民革命が完成すると支那はいよいよ反日にのりだした。なぜ支那が反日をしたのかについては複雑な経緯がある。反日の初めは対華二十一カ条要求もあったが、反日運動の本格化は満洲地域を日本と争ったソ連の指導で中国共産党が騒ぎ出したというのが実情である。もちろんベルサイユ条約で示されたウィルソンの「民族自決」も影響を与えている。ただしこの時の「民族自決」は元来西洋民族限定での話である。そうした「反日」勢力は裏で馬賊を操り日本人を殺傷する事件を頻発させた。関東軍はそれに対抗するために、居留民保護を名目として満洲事変を起こした。満洲事変は今日からみれば関東軍の拙い陰謀だったと言われかねないが、そもそも当時は自国権益も領土と同様に自衛権が持てるという時代である。従って武力攻撃の口実さえ整えば、という感覚が関東軍にあったのである。関東軍は、日露戦争で得た満鉄の権益を自国領同様とみなしそれを軍事的に防衛する発想に立ったのである。満洲では日本の警察制度が参考にされ、安全回復に努めた。そして無政府状態になり破綻しかかっていた貨幣制度を日本からの借款で回復させた。このような状況と満蒙独立運動が重なり、関東軍は満洲国を誕生させた。これに不満を持ったのが支那とソ連である。ソ連は満洲地域への進出を阻害され、支那は「中華民族」のイデオロギーが満洲独立で否定されてしまうからである。そこで支那事変が開戦となった。日支はずるずると戦争状態に陥ることとなってしまった。大東亜戦争への突入、そして敗戦後こうして日支が争うようになると、米国は中国国民党に武器を提供し、儲けるようになった。米国は、蒋介石に米国制の武器をどんどん援助し、またくず鉄の貿易を差し止めるなど日本の排除を画策した。日本は資源小国であり、またこうした援蒋ルートを断ち切るために大東亜戦争に踏み切った。日本の敗戦後、ソ連の影響力のもと、外モンゴルは独立したが、内モンゴル、ウィグル、チベット、満洲は中華人民共和国に組み込まれた。満洲に日本が残した遺産は戦後の中華人民共和国に利用された。ウィグルやチベットは軍閥割拠時代の無政府状態と日支の戦闘により事実上の独立を手にしていたが、戦後毛沢東政権に再び侵略されることになる。チベットやウィグルをなぜ中華人民共和国が欲するか。領土や資源などもあろうが、中華人民共和国は統治の正統性を国共内戦で中華民国に勝利したことに置いている。その中華民国は「清朝の打倒」と「統治の継承」に正統性がある。その清朝は「元朝」と「明朝」の統治の継承が正統性である。このように政治の正統性がその統治に大きな影響を与えていることを知ることは、今後の日支関係を考えるうえで重要である。

まとめ

これまで元朝以降の東洋史を眺めてきた。支那の歴史を考えるときに、元朝以降の王朝の正統性がその統治や領土観念に影響を与えていることを述べた。わが国も、秀吉の時代や明治以降は西洋列強の脅威に対抗するため、アジアへの進出を繰り返した歴史がある。日本のアジア進出にもそれなりの理由があったのと同様に、支那にもそれなりの理由があって、領土にこだわっている。日支双方とも歴史認識が大きな問題となっているが、どちらかが悪逆であるからこのような事態になったわけではない。まずはそのことを双方ともに認識することが重要であろう。一方で、欧米列強に対抗するためとはいえ、日本側には日韓併合や対華二十一カ条要求などの愚策があり、近代国民国家に変わらなければ生き残っていけなかったとはいえ、支那にはウイグルやチベットなどへの一元統治の強制という愚策があった。それぞれに同政策が誤りであったという認識が必要であろう。隣り合う大国は仲が悪いのが通例とはいえ、東洋史は東洋各国がまとまれず、みすみす欧米列強の侵略を許した歴史でもある。本紙でたびたび触れている通り、興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道の覚醒にあると喝破した。亜細亜諸民族がそれぞれの古層に立ち返ることを考えたとき、元朝や清朝の統治は大いに参考になるはずに違いない。最後に、即時に実現できるとは考えていないが、理想論として本稿そしてこれまでわたしが本紙で記してきた論考から導き出される今後のアジア秩序について具体的な構想を述べたい。

◆日本は対華二十一カ条要求と日韓併合が誤りであったことを認める

◆現在中華人民共和国が統治している領域は、満洲、内モンゴル、ウイグル、チベット、漢の分割ないしは極度の自治を認める

◆上記が達成された後に「グローバル資本回避地」としてアジア各国の政治的経済的連帯を行う。ただしあくまで相互政府の連帯であり、アジア内においてもヒトモノカネの自由化は認めない。

◆各国はそれぞれの伝統文化の発揮、回復に努める。

※上記は大アジア研究会の見解ではなく、あくまで私見である。