記事紹介【大亜細亜・第三号】連載 大亜細亜医学の中の日本③ 坪内隆彦 

2017年08月31日

本連載初回で、欽明天皇(在位:五三九~五七一年)の時代に、百済から医博士が来日していたことを紹介した。実は、この時代には中国からも医学知識がもたらされていた。中国では五八一年に隋が建国されるが、五六二年に南北朝時代の呉から知聡という人物が日本に帰化していたのである。彼がもたらしたのが、『甲乙経』などの医学書百六十余巻だった。これが日本に中国医学が紹介された最初である。『甲乙経』は、三世紀半ばに、皇甫謐が針灸治療に関する幅広い内容をまとめたもの。そこには、針灸経穴を明確にした「明堂図」などが含まれている。六〇七年、推古天皇は小野妹子を遣隋使として派遣した。これに同行したのが恵日、福因らである。恵日は、『続日本紀』天平宝字二(七五八)年四月己巳条によると、もと高句麗人で雄略朝に百済から渡来した徳来という技術者の五世の孫で、中国の医術を習得して薬師の姓を与えられ、子孫は難波薬師を称したという。福因は、渡来系氏族・ 倭漢直である。倭漢直は、応神天皇のとき来朝した阿知使主の子孫で、大和国高 たけ 市 ちの 郡を本拠とし、五世紀半頃から文筆、工芸などに携わる渡来人を管轄する伴造を務めていた。恵日と福因は、推古三十一(六二三)年に、新羅使とともに帰国した。この間、六一八年に隋が滅び、唐が建国されている。恵日と福因は、「唐は法式備わり定まれる珍しい国であるので、常に通うべきである」と建言している。このとき、彼らが伝えたのが中国の隋の医家・巣元方の『諸病源候論』である。同書は、広く病名を挙げ、症候を記述し、病源を論じたもの。隋以前には、病因証候学を扱った書物はなかった。そこで、巣元方は煬帝に上奏し、『諸病源候論』作成を提案、勅命によってその計画を実行した。これまでの医学書を整理し、明らかにされていなかった疾病を研究して、六一〇年に完成した。『隋煬帝開河記』には、巣元方が重病人を風逆病」と診断し、羊肉の入った処方を与え、数日で回復させたというエピソードが記されている。恵日はその後、遣唐使として二度唐に渡り、後漢時代の医師・張機(張仲景)らの著書をもたらした。張機は、医聖とも称えられる医師である。青年時代に同郷の張伯祖から医術を学んだ。彼は、有能な官僚であったが、後漢末期の混乱とそれに追い討ちをかける疫病の蔓延に心を痛め、官を退いて医学の研鑽に務めることを決意した。古代から伝わる医書の知識と自らの経験を加えて彼が著したのが『傷寒雑病論』である。その序文で張機は次のように書いている。

 〈余の一族は、もともと二百人にあまるほ どいたが、建安元(一九六)年から十年もたたないのに、死亡するものがその三分の二に達した。そしてそのうち十分の七は傷寒にかかって死んだのだ。こうして死亡者の続出し
たこと、年若くして死んでゆく人々を救う手段のなかったことを嘆じ、発奮して「傷寒雑病論」を著した〉後に、同書は傷寒(急性熱性病)につい
ては『傷寒論』、雑病(慢性病)については『金匱要略」に分割されたとされている。『傷寒雑病論』は、昭和五十六年に日本漢方協会から復刻されている。その序文で、日本漢方医学研究所理事長の伊藤清夫氏は次のように書いている。

 〈『傷寒論(古くは傷寒雑病論)』『黄帝内経素問』『神農本草経』は、中国医学の三大古典であることは、昔も今も変わりはない。その中で『傷寒論』は中医学を学ぶ者にとっては、研究すべき必須の古典であるという。現在の中国においても、『傷寒論』関係の出版が続々と行なわれ、その研究の重要さがうかがわれる。さて、日本の漢方、特に古方派漢方は、傷寒、金匱の研究から出発していることは周知の通りである。『傷寒論』は『傷寒論』の理論で解釈するという考え方、それに腹診の発達が加わり、親験実施を精神とした古方派漢方は中医学と違う発展をとげて今日に至っている。『傷寒論』の最も古いとみられる章句(古方派はこれを本文と称する)は、病気の症状、経過を述べ、それに対する治療法(薬方)を
あげているだけで、特別の理屈で説明していない。もしその臨床的観察が正しく、適用した薬方が有効であるなら、後世の人がそれを追試しても同じ効果をあげ得る筈である。事実を正しく把握していたら、二千年を経ても、その事実には変りはない筈である。後世、何千何万の人が『傷寒論』を追試して、『傷寒論』の事実の把握の正しさを確認してきたわけで、これが『傷寒論』を今日に至るまで、最も価値ある医書として継承してきた所以であると考える。西洋医学を学んだ者も、『傷寒論』を研究し理解すれば、臨床に応用してその効果を確認し得るのであるが、これは『傷寒論』が正しく事実に立脚していると考えれば、了解できることである。従って西洋医学を学ぶ者にも、『傷寒論』研究は稗益するところが大きいと考える。以上、『傷寒論』は、日本の漢方にとっても、中医学にとっても、研究すべき必須の原典であることは論をまたない。しかし漢方が西洋
医学的治療と伍して、日本の医療界に貢献するためには、今後の『傷寒論』研究は、科学的実証精神に立脚すべきである〉

中国医学の三大古典の一つを著した張機の知識は、七世紀初めには日本にもたらされ、今日もなお日本の医学界で重要な位置を占めているのである。