記事紹介【大亜細亜・第二号】「東洋経綸の魁、平岡浩太郎」  浦辺登

2017年02月05日

孫文の墓参

大正二(一九一三)年三月十八日、孫文は墓参で博多聖福寺を訪れた。早くから革命を支援してくれた平岡浩太郎への感謝の気持ちを表明するためだった。残念ながら、平岡は中華民国の建国を見ることなく、明治三十九(一九〇六)年十月二十四日に亡くなった。何でも一番でなければ気が済まない平岡だけに、さぞかし、孫文の偉業に立ち会うことができなかった悔しさは人一倍だったろう。

平岡は嘉永四(一八五一)年六月二十三日、福岡城から西の方角にある地 行五番町に生まれた。この界隈は福岡藩の下級武士が多く住む場所だったが、面白い事に、この地域からは平野國臣(幕末の志士)、金子堅太郎(農商務大臣)、福本日南(ジャーナリスト)、中野正剛(玄洋社員、衆議院議員、元朝日新聞)という著名な人々を輩出している。

この地行には鳥飼神社という神功皇后伝説の社がある。中野正剛の銅像が佇立していることでも知られるが、その鳥飼神社前の通りを少し東に進むと、平野神社という平野國臣を祭神とする社があり境内に平野君生誕地碑があるが、その裏面の撰文は金子堅太郎によるものである。いわば、幕末から近代が凝縮された地域とでも言うべきか。

平野國臣の父は福岡藩の武術師範としても知られるが、平岡は平野の父吉郎兵衛に剣術を習った。平野國臣は幼少の平岡を膝に乗せ、平岡は平野の髯を引っ張るなどのイタズラをして遊んだ仲だった。「この子は大きくなったら、立派な大人になるだろう」と國臣は平岡を評した。

ちなみに、福本日南も自身が描いた武者絵を平野に誉められたという逸話が残っている。

幕末の福岡藩

幕末の倒幕運動では、全国の志士に向けて平野國臣がオルガナイザー的役目を担った。獄中から西郷隆盛に倒幕を決意させる紙縒り文字の書簡を送ったこともある。獄中での平野は墨、硯、筆を取り上げられていた。便所の落とし紙を紙縒りにして文字を象り、飯粒を糊にして手紙に仕立てた。勤皇僧月照を薩摩の西郷のもとに送り届ける役目も平野だったが、文久三(一八六三)年の「八月十八日の変」で長州に下った七卿の一人、澤宣嘉と生野で決起し失敗。京都六角で平野は獄死した。

平野や平岡が属する福岡藩でも慶應元(一八六五)年に「乙丑の獄」と呼ばれる政変が起き、筑前勤皇党党首である家老の加藤司書以下、多くが斬罪に処せられ、野村望東尼は島流しにあった。月形洗蔵らが画策していた薩長和解、同盟が結実する寸前であっただけに、筑前太宰府の延寿王院に移転していた三條実美以下五人の公卿も窮地に立たされた。しかし、坂本龍馬が継承者として薩長同盟が実現し、慶応三(一八六七)年十二月、王政復古の大号令とともに明治維新の大事業が成就した。この後、若輩ながらも、平岡浩太郎は福岡藩兵の一員として東上した。

西郷との出会い

「乙丑の獄」という政変により、佐幕派と みなされた福岡藩は維新のバスに乗り遅れた。それでも討幕軍を編成した福岡藩だったが、ここで「何でも一番」という平岡の傲岸不屈な性格が奇縁をもたらした。

ある日、千代田城(江戸城)桜田門の歩哨に平岡が就いていた時だった。偉躯雄貌巨眼豊頬の士が騎乗のまま門を通過しようとした。突然、平岡はその馬前に飛び出し、轡をとって馬上の人物にきつく誰何した。

「予は西郷なり隆盛なり」

それを聞いて慌てて平岡は一礼し、西郷を通した。其の日の夕方、西郷は衛兵詰所を訪ね平岡を呼び「歩哨の任務は非常に重いものであり、軍務に就く者はすべからく君のような心がけが大事だ」と誉めた。休日には邸に遊びに来なさいとまで声をかけられた平岡は、西郷の度量の大きさに感服し、以後、西郷を崇拝するようになった。

明治十(一八七七)年、西郷が鹿児島で決起する。「征韓論」で下野し、鹿児島に帰っていた西郷だったが、その決起に旧福岡藩士も呼応し、平岡も加わった。しかしながら、旧福岡藩士たちは政府軍に追討され、平岡は包囲を潜り抜け薩軍陣地に飛び込むことができた。

玄洋社の初代社長になる

西南戦争後、賊軍として監獄生活を送った平岡だったが、同じく牢獄から放たれた頭山満、進藤喜平太、箱田六輔らと自由民権運動団体の玄洋社を興した。その成立は明治十二(一八七九)年十二月であり、玄洋社と歩を一にする筑前共愛公衆会も同時に成立している。この筑前共愛公衆会の会長は三木隆介(小野隆助)、副会長は箱田六輔だが、ともに玄洋社員であり、民間による自治組織として画期的だった。

平岡はその玄洋社の社長選挙に名乗りをあげたが、頭山満が当選した。生来の面倒くさがり屋の頭山が固辞したため、何でも一番の平岡と箱田の両名が初代社長の座を巡って争いを起こした。それを裁定したのが人参畑塾こと興志塾の高場乱(男装の女医)だった。恩師でもある高場の意見を入れ、初代社長には平岡が就任した。

しかし、何でも一番になりたがる割には、早々に社長の座を降り、実業の世界に飛び込んだ平岡だった。西南戦争で薩軍に身を投じたものの、軍資金が枯渇すれば戦えない。その悲惨さを知る平岡は、玄洋社の活動資金捻出のため炭鉱経営に邁進した。

一般に玄洋社は「右翼」という極めて曖昧な言葉に集約される。しかしながら、その実態を「玄洋社員名簿」(石瀧豊美編纂)から眺めてみると、六三〇名の社員が登録され、その職業区分からは、とても「右翼」集団とは思えない。

郵便局員、用務員、商店主、銀行員、会社員、教員、警察官、軍人、医者、僧侶、神官、炭坑業、新聞記者、自治体首長、企業経営者、市会議員、県会議員、国会議員などである。「浪人の王者」と称された頭山満にしても、『日本の石炭産業遺産』(徳永博文著)によれば、渋沢栄一、岩崎弥太郎、吉田茂などと共に炭鉱開発業者として列記されている。

東洋学館を興す

玄洋社は「西郷精神」の継承を自認するが、その西郷の意を継承し、明治十七(一八八四)年、上海に「東洋学館」という学校を設けた。そこには玄洋社員、熊本の相愛社の若手などが送り込まれ、語学の習得、大陸情勢の研究を行なった。この「東洋学館」設立には平岡浩太郎(玄洋社)、中江兆民(土佐自由民権思想家)、末広重恭(朝野新聞主筆)、長谷場純孝(文部大臣)、佐々友房(済々黌)、杉田定一(越前自由民権思想家、衆議院議員)、植木枝盛(民権論者)、大内義瑛(玄洋社)、樽井藤吉らも参画した。樽井は日本と朝鮮との対等合邦を説いた『大東合邦論』でも知られる。

しかし、東洋学館は資金難から一年を経ずして閉校に追い込まれる。それでも平岡は諦めきれず、上海に製靴店を設け、関屋(谷)斧太郎(玄洋社)たちに情報収集を継続させた。同時にこの頃、漢口楽善堂の活動も始まっている。「漢口楽善堂の歴史(上)」(大里浩秋著)には、大陸の情報収集活動に従事していた伊集院兼雄大尉から荒尾精(当時参謀本部所属の陸軍中尉)に引き継ぎがなされたとの記述が見える。この漢口楽善堂には東洋学館の学生たちも参加し、山崎羔三郎(玄洋社)の名前も見えるが、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満も漢口楽善堂運営の相談にのった。この漢口楽善堂は後の日清貿易研究所へと発展するが、ここで忘れてはならないのが岸田吟香である。岸田は上海を拠点に薬品と書籍の販売を行なう楽善堂を開いていたが、荒尾精たちは楽善堂漢口支店としての事業だった。岸田の支援なくして漢口楽善堂の存続は困難だった。

余談ながら、代表作『麗子像』で知られる画家岸田劉生の父が吟香になる。

日清貿易研究所を興す

日清貿易研究所は、日本と支那(中国)との人的交流、経済興隆によって、東洋の安定を目指す人材を育成する学校だった。漢口楽善堂メンバー荒尾精が中心となったが、若き日の荒尾は西郷隆盛の書生として一つ屋根の下で過ごした事もある。

残念ながら、この日清貿易研究所は日清戦争勃発によって閉鎖された。日清戦争は明治二十七(一八九四)年に始まったが、この清国との戦争に駆り出されたのが日清貿易研究所の学生、職員だった。陸軍通訳官として従軍した山崎羔三郎、鐘崎三郎、藤崎秀などは「殉節三烈士」として国民的英雄だった。

清国は満州族政権の国だが、支配下にあった漢民族は日清戦争前から革命政権樹立に向けて活動していた。漢口楽善堂の綱領にも「漢民族を助けて其革命運動を助成し、以て日支(日中)提携の実現を期す。」とある。

そして、「東亜経綸として必要な人材育成として上海に学校を設立する」とあり、これが後に日清貿易研究所として実現したのだった。

さらに、長沙、重慶、北京等に(楽善堂)支部を設け、革命派志士と連絡を保持し、革命運動を促進するとした。

日清戦争後、革命政権を樹立する核となる同志を求め活動は活発化したが、荒尾は台湾で病死してしまった。その事業を引き継いだのが、荒尾の盟友であり日清貿易研究所生徒舎監の宗方小太郎だった。宗方は済々黌を興した佐々友房の薫陶を受けたが、佐々も薩軍に身を投じた一人だった。いわば、西郷精神の継承者と言っても良い。佐々が平岡たちと東洋学館設立に尽力するのも自然な流れだった。宗方と協力関係にあった宮崎寅蔵(滔天)の兄八郎も薩軍に馳せ参じ、戦死している。

孫文の来日、出会い、支援

宗方小太郎は詳細な日記を遺している。その内容を追っていくと、明治三十(一八九七)年十一月二十日、滔天の実家である荒尾村(現在の熊本県荒尾市)で宗方は孫文(逸仙)と会見している。この年の九月、孫文は日本に亡命してきたというが、山中樵(中山ともいうが日記には山中とある)の変名を使ってもいた。日清戦争勃発の報にハワイで興中会を起こしたものの、以後、革命蜂起に失敗しては幾度も日本に逃げ込んできた孫文だった。そんな亡命者孫文、身辺警護者の宮崎滔天の生活支援を行なってきたのは、玄洋社の人々だった。炭鉱経営者として財を成した平岡浩太郎は孫文の亡命資金を提供し、革命蜂起のヒト、モノ、カネまで準備した。時には、本来の目的である中国の革命支援が孫文の意志でフィリッピンの独立支援に費消されもした。いわゆる布引丸事件では、平岡の甥である内田良平(玄洋社、黒龍会主幹)と滔天とが対立し、袂を分かつ原因にもなった。

平岡が亡くなった後、その平岡の事業を引き継いだのが安川敬一郎(玄洋社、明治鉱業)だった。平岡と安川は炭鉱の共同経営者という関係でもあった。その安川が設立した明治専門学校(現在の九州工業大学)の職員宿舎には亡命中の孫文が潜んでいたとも、学生食堂で食事をしていたともの証言もある。この工業学校を目にして、革命成就後には自国に設立したい学校として孫文は関心を示していたのではないだろうか。

大正二(一九一三)年三月、孫文は八幡製鉄所、明治専門学校、九州帝国大学、常盤館、玄洋社など、思い出の地を訪問した。この時、初代玄洋社社長である平岡浩太郎の墓参を行なった。誰が、隣国を最初に助けてくれたのか。それを孫文は忘れていなかった。なんでも一番でなければ気が済まない平岡は、孫文の墓参に「魁は俺だ」と地下で胸を反らしていたのではないか。

蛇足ながら、この平岡の墓所にインドの婦人を案内する機会があった。今、あなたが立っている場所は孫文が御礼の墓参で来た際に立った場所ですよと告げると、飛び上がらんばかりに驚愕していた。インドが独立できたのは、孫文が革命に成功したからだという。平岡は、これを聞いて、再び胸を反らしてのではなかろうか。

辛亥革命といえば孫文。その孫文の革命支援に多くの日本人が関わった。その魁としての平岡浩太郎の存在を忘れてはならないと思う。

【参考文献資料】

玄洋社社史編纂会編、『玄洋社社史』、葦書房、平成四年

井川聡、小林寛著、『人ありて』海鳥社、二〇〇六年

石瀧豊美  著、『玄洋社封印された実像』海鳥社、二〇一〇年

徳永博文  著、『日本の石炭産業遺産』弦書房、二〇一二年

劉寒吉著、『松本健次郎傳』松本健次郎傳刊行会、昭和四十三年

大里浩秋  著、「宗方小太郎日記」神奈川大学人文研究所、浦辺登著、『アジア独立と東京五輪』弦書房、二〇一三年