記事紹介【大亜細亜・第二号】「筑紫都督府」と大宰府の成立 山本直人

2017年02月12日

『日本書紀』の天智六(六六七)年十一月の件には、「筑紫都督府」といふ謎の記述が、百済の「熊津都督府」と並列される形で登場してゐる。後年の大宰府の前身にあたる施設の様だが、「都督府」といへば、唐が羈縻体制下にあたつて、被支配国に敷いた軍事施設である。半島においても、同盟を結んだ新羅には鶏林都督府、百済滅亡後、熊津都督府、高句麗滅亡後には安東都督府などが敷かれてゐる。その点について、中村修也氏は『天智朝と東アジア』(NHK出版、二〇一五)の中で、「...百済や高句麗の敗戦後の状況を考えれば、日本にも都督府が置かれる状況はじゅうぶんにあったと解するべきではなかろうか」と提起している。七世紀に唐に敗れた百済や高句麗同様、白村江敗戦後の日本に「筑紫都督府」が敷かれたであらうと考へるわけである。そこには、「...大国と戦って敗戦すれば、占領支配を受けるといった戦争の法則から外れることはない」といつた"戦争の常識"が前提とされてゐる。確かに我々の知る第二次世界大戦寺の日本の敗戦時と照らし合せれば、「日本は敗戦したが、唐の占領は受
けずに、唐と友好関係を保ち、唐の律令を導入して国力の充実をはかった」といふ論理には不自然さが残るのは否めない。さうした"定説"に対して疑問が生じるのも、至極当然だといへよう。

しかしながら、そもそもさうした事実があるならば、大陸側の正史である『旧唐書』『新唐書』、半島の『三国史記』に、それに該当する記述が一切ないのはどういふわけか。新羅や百済、高句麗にせよ、都督府が敷かれたのであれば、必ずそれに該当する記述が書き込まれてゐる。まして戦勝国側の唐や新羅が、「倭国への支配」といふ"事実"を隠蔽する理由などあるまい。

書紀の「筑紫都督府」については、岩波文庫の『日本書紀』の補注においても、「原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」としてをり、依然として謎である。もちろん国内外の正史から漏れた可能性もあらう。それでも正史以外の伝承や木簡などの断片的な史料などに、何らかの痕跡が伝へられて然るべきだらう。

例へば押部佳周氏は『日本律令成立の研究』(塙書房、昭五六)の中で、「これは鎮将の要求を入れ、部分的であろうが都督府制の導入を名目上容認したことを示すものであろう」と推測してゐる。百歩譲つて「筑紫都督府」が"事実"だとしても、唐が支配したのは筑紫周辺のみなのか、それとも近畿にまで及んだのか。仮に日本を"占領下"においたとするなら、唐はいつ撤退したのか。滅亡させた百済や高句麗に対してさへも、唐はしばしば復興軍の反乱に悩まされてゐる。その後新羅との対立が鮮明になると、唐は各都督府を移動、もしくは撤退させてゐるのだ。もし日本に対して都督府が敷かれたのであれば、戦勝国が被占領地からの反乱でもない限り、さう易々と撤退することなど、ありえないはずである。

「筑紫都督府」の用例は天智六年条の一例 のみであり、その後律令制下の大宰府成立まで、後にも先にもにない。倉住靖彦氏の『大宰府』(教育社新書、昭五四)では、「都督府は大宰府の唐名として用いられるが、本来的な意味は軍政府であり、史料的にはこれが唯一の用例である。当時の緊迫した状況が筑紫大宰に重大な影響を与え、駐在地の移転とともに、機構的にも整備が進められたであろうことは十分に考えられる」と推察してゐる。古代からの我が国における外交姿勢を辿つた『善隣国宝記』に拠ると、天智天皇三年四月に、唐使郭務悰が対馬に到着した際、伊吉博徳が「日本鎮西筑紫大将軍」の牒を渡して、入京を拒否したといふ『海外国記』の記録が引用されてゐる。そこから倉住氏は、都督府と「大将軍」との関連に着目し、「後に『書紀』編纂にさいして、同条にもみえる熊津都督府に模して筑紫都督府という名称を創出したのではないだろうか」と説明してゐる。必ずしも明確な解答にはならないかもしれないが、筑紫大宰がその後の律令制度における大宰府成立の前身と考へれば、最も穏当な解釈といへるだらう。

以上の点から「筑紫都督府」について、以下の様な私見を提示するに留めておきたい。わが国の律令国家における大宰府の歴史は、推古朝の時代から我が国の外の玄関口の役割を果たしてきたと推定される「筑紫大宰」の時代に遡る。ところがその筑紫大宰が、百済救援の役を境に軍事的側面を強めることになつた。その結果、当時の外交担当者が、筑紫大宰の軍事施設化に伴ひ、対外的に呼称するのにあたり、半島の各地に設立された「都督府」に該当する施設と解釈し、臨時的に記述して残されたのが、この「筑紫都督府」だつたのではないだらうか。―これが現時点での筆者の見解であるが、もちろんこれも憶測の域を出ないものである。唐による倭国支配を示す史料がなく、尚かつその後「都督府」が大宰府の漢名として菅公の時代まで並称され続けた、といふ実状を鑑みれば、いづれにせよ「筑紫都督府」は、飽くまで筑紫大宰から大宰府設立までに使用された一時的な呼称に過ぎまい。

何よりも六六八年の高句麗滅亡まで、倭国と高句麗との交流、もしくは両国の同盟関係が継続されてゐた事実をどう見るべきか。『旧唐書』「劉仁軌伝」に、天智天皇四(六六五)年八月、百済の熊津で、劉仁願のもと、旧百済王子の扶余隆と新羅の文武王とが和親のための会盟儀式を行はれた。その際、劉仁軌の上表文に「陛下もし高麗を殲滅せんと欲せば、百済の土地を棄つべからず...倭人遠しと雖も、また相影響す」と綴られてゐる。唐が百済を滅ぼしながらも、百済と倭との関係に対して、依然として警戒を解いてゐない状況が察せられる。

唐が倭国に羈縻体制を敷いたのであれば、唐にとつて依然として敵対国であつた高句麗との外交を許すはずなどあるまい。白村江敗戦後、少なくとも二回にわたる高句麗からの使者は、書紀編纂者による粉飾とでもいふのであらうか。だとすれば、東国各地にある高麗郡などの集落をどう説明するのか。

そもそも「敗戦=占領」ではない。第二次世界大戦での日米間の戦争においても、周知の通り、我が国は昭和十八年のミッドウェイ海戦以来、ソ連参戦に至るまで敗北を喫してきた。しかし、ミッドウェイで敗北してから、即時に米国による日本支配が始まつたわけではない。その後のガダルカナル撤退、ラバウル戦、絶対国防圏の最前線にあたるサイパン侵攻以降は、本土空襲、そして沖縄上陸、広島長崎への原爆投下...と、米軍は日本軍の抗戦に遭ひながらも、段階を踏んでから本土上陸を果たしてゐる。そして数々の終戦工作をたどつてから、漸くGHQによる占領政策を実施してゐるのである。

七世紀の東アジアにおいても、唐は百済や高句麗に対して、何度も攻撃を加へながらも、その都度抵抗に遭ひ、現地での徹底攻略を果たしてから、漸く羈縻支配に至つてゐる。まして倭国本土から遠く離れた異国の地での軍事的敗北である。しかもそれは、飽くまで百済といふ同盟国への後方支援といふ形をとつたまでである。海戦で唐と倭国が直接対峙したことはあつても、それも実質的には、百済対新羅の代理戦争だつたに過ぎない。いはば第二次世界大戦後の冷戦下における朝鮮戦争、ベトナム戦争が、事実上米国とソ連との代理戦争であつたとすれば、唐と日本との戦は、さうしたイデオロギーすら介在しないものであつた。

確かに倭国は、唐との直接対決によつて海戦での大敗を喫した。しかし失つたのは、飽くまでそれまでの半島経営における権益や優越的地位であつて、本土そのものが攻撃の被害に見舞はれたわけではない。もちろんそれでも、これまで大陸から朝貢関係からは距離を保ち、新羅百済において優越的な地位にあつた倭国にとつて、白村江での敗戦は大きな損失であつたことは変りあるまい。

以上、この問題についてこれ以上立ち入るのは控へるが、今後「唐による倭国への羈縻支配」を「事実」認定されるまでには、国内外の複数の史料、考古学的成果の発掘などが必要条件である。しかしながら、今のところその可能性はゼロに等しいといつてよい。

例へば百済の最後の王都だつた、韓国の扶余の定林寺の石塔の第一層には、「大唐平百済国碑銘」と刻まれた碑文が残されてゐる。百済滅亡当時の唐軍が戦勝記念に刻んだものだが、同様の仕打ちを倭国に施さなかつたの17は何故か。唐が倭国に羈縻支配したのであれば、「大唐平倭国碑銘」の様に、何らかの物証が遺されて然るべきではないか。それとも壬申の乱の戦禍で破壊されたとでもいふのだらうか。

比較文学、比較文化、比較思想...といつた具合に、異なる対象を複数並べて比較検証しようとする場合、類似点だけ並列させて分析するのは適切ではない。両者に類似点があるとするならば、全く同一の内容でもない限り、譬へ小異であつても必ず相違点を見出す手続きが不可欠である。況して千三百五十年以上もの年月の離れた古代史と現代史である。現代の戦争の論理を以てして、遙かに時空の推移した古代を裁断する弊は慎まなければならない。

高句麗滅亡後、半島統一を果たし、三韓一の弱小国から強大国となつた新羅と、当時最大の大帝国でもあつた唐とは、激しく対立する様になつた。さうした中、白村江以降の我が国は、戦闘での敗北後にも関らず、唐とも新羅とも双方、対等な関係を結ぶことになる。むしろ倭国は、その後、隣国との外交そのものにも距離を置き始めた、といつた方が実情に即してゐるかもしれない。さういつた世界情勢もあつてか、我が国は白村江敗戦後も、比較的安定した立ち位置を確保することができたのである。

天智天皇の近江朝時代の約五年間は、確かに昭和の敗戦後の米国による占領下七年に匹敵する、極めて緊迫した期間にあたるかもしれない。そして、あまりにも目まぐるしく変化する国際情勢とともに、外圧との葛藤、急速度による新文明の移入に明け暮れた時期でもある。さうした中、他国からの直接支配を受けることがなかつた当時の我が国の奮闘は、各国の思惑や東アジアにおける日本の地勢的距離など、様々な偶然が作用した結果とはいへ、もつと見直されてよいはずである。