記事紹介【大亜細亜・第二号】アジア主義に生きた杉山家の伝承② 杉山満丸

2017年02月02日

二〇一五年、福岡市のとある会で、私は杉山三代について講演する機会を与えていただきました。その会には、福岡の名士の方々が多数参加されておられました。

一通り話が終わって、ある方から、「孫文を支援したと言うことですが、見返りはなんだったのでしょうか?」という質問がありました。さらに、別の方から、「なんの見返りもなく支援したこと自体が、今の我々の感覚では理解できないんですよね~」と言葉が続きました。

私は、驚くとともに、情けなくなってしまいました。感情を抑えて応対させていただきました。

玄洋社の地元福岡でも、その頂点近くで活躍されている多くの教養をお持ちの名士の方々でさえ、玄洋社並びにその活動に賛同し支えた人々への理解がなくなっていることに驚きを禁じ得ませんでした。さらに、「玄洋社は、国権派でしょ。...」という言葉が続きました。はっきり記憶していませんが、国の権力におもねって、植民地を増やす先兵となってテロなどを行った。...というような発言があったと記憶しています。

その時、私をその会を紹介してくれた友人が、「とにかく、杉山君のお父さんの龍丸さんはインドを支援して、全財産を失っているのは間違いがないことだから...」と言ってくれました。すると、首長経験者の方が、「そういえば、インドに行ったときにあなたのお父さんの話は聞きました。何とかしてやりたいなと思っていましたが、そのままになってしまいました。」と発言をしていただきました。

もう一つ、例を挙げると、「杉山龍丸さんは、太平洋戦争の罪を償う ためインドの支援をされたのですか?」親しくさせていただいていた、或るテレビ局関係者からのこのようなメールをいただきました。私は、「そんなことあるはずがない」、と心のなかで叫びながら、動揺を抑え平静を装って穏やか返信しました。「そんなことはありません。祖父の夢野久作や曾祖父の杉山茂丸からの教え『杉山農園の土地は私物化することなくアジアのために使え』を忠実に守って生涯を終えただけですよ」と。

実は、私も、杉山家の土地が切り売りされてどんどん狭くなっていくのを見ながら、父杉山龍丸から「杉山家の土地は一切おまえのためには遺さない。その代わり自由に生きろ」という言葉を浴びせられ、インドのために土地を使い切るというのは、今の状況から抜け出せなくなった父が作り出した話だろうと思っていた時期がありました。

しかし、父の死後、父の福岡中学時代の同級生で、前福岡市長の桑原敬一氏の叔父さんにあたる桑原廉敬氏から直接次のようなお話をお聞きし、父への想いを強くすることになりました。それは、「戦後、負傷して帰国した父龍丸が、自分は後数年の命しかないと言われたから、アジアのために杉山農園の土地を使ってもらうように、土地を全部福岡市に寄付した」というお話です。寄付を受けた福岡市は、地元企業といっしょにゴルフ場を造ろうとします。おそらく、近くの雁ノ巣にあったといわれる進駐軍の基地からの要望もあったのではないかと思うのですが、それでできたのが今の和白カントリー倶楽部だそうです。その話に激怒した龍丸は、福岡市に怒鳴り込んだというのです。しかし、すべての土地を返してはもらえずに、ゴルフ場用地を除いた約三万坪が返されたそうです。昭和二十年代の中頃、企業の社長が当時の金で四百万を持って上京し、桑原さんは、「受け取るしかないだろう」と父の背中を押したそうです。

その後、父は偶然会った士官学校の同級生からインド人留学生の世話を頼まれ、何人目かの留学生にガンジーの直弟子の方がいて、その方のお世話をしたことから、ガンジー塾というガンジーの弟子の組織とつながるようになり、インドとの交流支援が始まります。

話が横道にそれてしまいました。孫文の話に戻りたいと思います。次の図は明治末期のアジア東部の地図です。この図を見て、皆様はどのように思われるでしょうか?白抜きのところ以外はすべて西洋列強の植民地になっているか、又は大きな影響下にあります。あと少しでアジアはすべて白人の影響下になってしまいます。日本と清国と朝鮮のみがアジア人が支配している地域です。もし、白人の支配下になれば、奴隷もしくは奴隷に非常に近い扱いを受けるのです。白抜きの国の人々は手を取り合って自分たちの国土を西洋列強の白禍から守ろうとするのではないでしょうか?

これが、孫文を支援し孫文とともに戦った当時の日本人の気持ちだと思います。それが、アジア主義の原点ではないでしょうか?

私の曾祖父杉山茂丸は、二十代中頃香港に行きました。筑豊炭田の石炭の売り込みに行ったと言われています。そこで見たものは、「犬と中国人は入るべからず」という看板でした。その後、茂丸は日本が植民地にならないように肝に銘じたと伝わっています。

茂丸は、大隈重信に書簡を送っています。その手紙は、早稲田大学古典データベースで公開されています。そこには十七通の手紙があり、その中の大正七年の手紙には、インドの惨状という写真が同封されています。植民地インドの現状を大隈重信に伝え、同じアジア人として、インドの現状を憂慮する内容が書かれています。

二〇〇七年(平成十九年)、私は福岡で、アシシュ・ナンディ氏とその甥でカリフォルニア大学教授のモハン・トリベディ氏とお会いしました。

モハン氏のお父さんと私の父が親しく交際していて、父が訪印したときにまだ子供であったモハン氏をすごくかわいがったそうで、二〇〇四年、訪日された際にわざわざ福岡まで来られて初めてお会いしました。その叔父である、アシシュ・ナンディ氏が福岡アジア文化賞の大賞を受賞され、そのお祝いに再び福岡に来られました。

私は、モハン氏とナンディ夫妻を玄洋社記念館(現在は閉館し、その資料は福岡市立博物館に寄託収蔵されている)にお連れし、ラス・ビハリ・ボースの神隠し事件と日露戦争勝利に曾祖父杉山茂丸を始め福岡の人々が大きく関わったことをお話ししました。

ラス・ビハリ・ボースの神隠し事件は、インド独立運動の過激派であったボースがインドで指名手配され、日本に逃れてきたときに、当時日英同盟下であった日本政府が、英国の要求によって、香港行きの船しかない1週間を狙ってボースを国外追放にし、そのボースを頭山満らが東京新宿の中村屋に匿った事件です。このときに、ボースを頭山邸から運んだ車は杉山茂丸が所有するものでした。そのふたつの話をしたときに、アシシュ・ナンディ氏は次のように話されました。

「日本人がボースを助けてくれたことはイ ンドではよく知られていることです。しかし、福岡の玄洋社の方々が大きく関わられているという話は初めて聞きました。本当にありがとう。日本が日露戦争に勝ったときにインドの街々がどのようになったかあなたは知っていますか?いや、インドだけではない、アジアの街々がすごい状態になったのです。私たちインド人は、日本人が日露戦争に勝つまで、有色人種は白人にかなわないと思うようになって深い絶望の中にいました。私たちは日本がロシアに勝ったことにより、私たちもイギリスから独立できるかもしれないという希望を持つことができたのです。インドの初代首相ネルーは、日本が日露戦争に勝った後に独立運動に参加したのです。このことを、日本人は知っていますか?深く意識していますか?」その言葉は、私の心に深く突き刺さりました。もし、日本がロシアに負けていたら、アジアすべてが西洋列強の植民地になり、今もその状態が続いているかもしれません。日露戦争での日本の勝利こそが、植民地化を進めていた西洋列強が行った侵略のターニングポイントになったのです。そのことを、もっともっと日本の歴史の中に刻まなければいけないという想いを私はその時に心に刻みました。

曾祖父杉山茂丸は、表の歴史には現れませんが、日露戦争に大きな足跡を残しています。杉山茂丸は桂太郎児玉源太郎らと暢気倶楽部というものを創り、日露戦争開戦の準備をしていました。そして、日露戦争の幕引きも、茂丸から山県有朋などへもたらされた情報によって始められたと伝えられています。(杉山茂丸『俗戦国策』書肆心水一九二九年)

杉山茂丸の幼馴染と言われる明石元二郎は、ロシアを内部からかく乱するため、ヨーロッパに渡ってレーニンに接触し、革命資金を渡したと言われています。杉山家には「革命に民衆を巻き込むために社会主義を使う、とレーニンが語った」という話が遺っています。

日露戦争の幕引きをおこなったのは、福岡出身の金子堅太郎の活動によるものでした。金子堅太郎はアメリカ・ハーバード大学に留学していたときに、日露戦争当時のアメリカ大統領であったルーズベルトと学友であり、この関係によってルーズベルトが仲介に立ち、戦争の終結がおこなわれたと聞いています。

日露戦争に関する杉山家の口伝は、他にもあります。資金が足りなかった日本が、ユダヤの実業家に日露戦争の戦争債を買ってもらうための下交渉を杉山茂丸がおこなったというものです。その際に、日露戦争後の満州の権益の半分をユダヤ資本に譲るという密約があったと伝わっています。

私が学生の頃に龍丸から聞いた話では、茂丸は満州にユダヤの国を創ろうとしていたというのです。これは1930年代の「河豚計画」というものに繋がったのかもしれません。

私見ですが、ユダヤ民族との関係を構築し、ユダヤ民族の国を満州に構築することによって、

1、日本は日露戦争の戦費を心配することなく戦うことができる

2、ユダヤ民族との関係がよくないロシアの南下を抑えることができる

3、国際的に特異な民族であるユダヤ民族と日本が手を握ることによって、日本の海外進出のパートナーができる

等のメリットがあったでしょう。ユダヤ民族の得意な分野は金融であり、日本人が得意とする分野は製造ですから、ちょうどいいパートナーとなりえたと思います。またユダヤ民族と日本人には、鳥居のかたちや神輿など伝統的な文化にいくつもの共通点杉山茂丸所有の車アンシュ・ナンディ夫妻と筆者家族8があるとも言われています。

結論から言うと、日本とユダヤの密約は実現することはありませんでした。日露戦争後に満州を訪れたアメリカの鉄道王ハリマンの態度に怒った通訳の話が、小村寿太郎に伝わり、小村寿太郎が密約の実行を断ったためとされていますが、今の私には詳細は判りません。ユダヤとの約束は神を介した約束と言われるそうです。その約束を反古にすれば、それに見合った罰が下るのだそうです。真実はわかりませんが、これに怒ったユダヤの人々が、太平洋戦争へと日本を追い込んでいった(オレンジ計画と言われるものかもしれません)という話もあります。

太平洋戦争時、ポーランドなどからユダヤ人を脱出させた杉原千畝や、満州でユダヤ人を救った松岡洋右などの話がありますが、これはこのときの約束を償うためにおこなわれたのではないかと私は思っています。松岡洋右は杉山茂丸に師事した人物であり、杉原千畝も松岡洋右との関係があると言われているからです。

話は少しそれますが、福岡出身で唯一の総理大臣経験者である広田弘毅が外相の折、杉山茂丸の庭と広田弘毅の外務大臣公邸がつながっていて、毎晩のように広田外相が茂丸のところに相談に来ていたという話が残っています。最近聞いた話では、トンネルが掘られて繋がっていたそうです。今の私には確かめようもありませんが、それだけ、杉山茂丸が外交問題に詳しかったということではないかと思います。二年ほど前に私が講師を務めたある講座で、このユダヤとの密約の話をさせていただいた後の懇親会の席で、主催者の男性がこんな話を始めました。「私はアメリカで二十年ほど金融関係の仕事をしていました。そのときに仲良くなったユダヤの名家子孫の方から、十年前、今日杉山さんが話された話と同じ話を聞いたことがあります。だから今日のお話には驚愕しました」私は何とも言えない感覚に見舞われ、言葉がありませんでした。

最近このようなお話をすると、杉山茂丸はユダヤに魂を売った日本人のルーツだと考える方がいらっしゃるようです。当時の国際情勢は現在とは大きく異なっていますし、当時の日本人の大多数はお国のために命を捧げる覚悟があり、私利私欲のために人生を生きた人は非常に少なかったのではないでしょうか。現在の感覚から安易に判断するのではなく、その人物の人生の足跡を調べることが必要だと思うのです。

写真について、前坂俊之氏(元毎日新聞東京本社情報調査部副部長元静岡県立大学教授夢野久作と杉山三代研究会会員)のホームページより引用したものをご紹介します。(日露戦争末期)奉天会戦に勝利した日本は講和を決定し、ルーズベルト米大統領に斡旋を依頼した後、明治三十八年(一九〇五)七月、山県有朋参謀総長ら大本営陸軍部将校一行が、極秘裏に満州に渡った。奉天総司令部に各軍司令官を集め、戦争終結を伝えるためであった。

この山県の渡満は最高の軍事機密として厳重な鍼口令がしかれた。七月十四日、一行は新橋駅を発ち、神戸で偽装した御用船「河内丸」に乗り込んで大連に密かに出航した。その出航間際に水上艇に乗った一人の民間人がノコノコと乗り込んできた。杉山茂丸である。

乗船するや杉山は山県のキャビンに入って密談し、出てこない。将校たちは「一体、何者なのか」と、唖然とした。奉天の満州軍総司令部に到着すると、一行は別々に部屋割りされたが、杉山は児玉源太郎総参謀長の宿舎に泊まり込んだ。参謀本部員でも容易に入ることのできない最高指揮官のシークレットルームである。

実は桂太郎首相、児玉、杉山は密かに秘密結社を結んでおり、児玉と杉山は一心同体で固く結ばれていたのである。

二人は寝食を共にしながら、極秘の計画を練り上げた。児玉は杉山に日本軍占領地の全鉄道の地図、資料を見せ、その維持管理をどうするか、基本プランの作成を命じた。

杉山は二週間、不眠不休で作成し、政府の出資金一億円、民間からの株式公募一億円の計二億円の資本金、鉄道、沿線付属地の炭鉱経営を含めた南満州鉄道株式会社の設立計画案を山県に上申した。杉山こそ明治国家の影の参謀役だったのである。

※写真は『大亜細亜』第二号本紙でご確認ください。

→併せて読みたい「アジア主義に生きた杉山家の伝承①」