記事紹介【大亜細亜・第二号】史料・東洋学館趣旨書

2017年02月21日

東洋学館設立の直接的経緯としては、明治十七(一八八四)年八月の清仏戦争勃発という緊迫した東アジア情勢を挙げることができる。ただ、東洋学館の構想は、民権派を中心に明治十五年の壬午事変後から温められてい
たものである。その中心となったのは、熊本の宗像政、日下部正一、鹿児島の長谷場純孝、和泉邦彦ら九州改進党の人々だった。九州改進党は、熊本の実学党の流れをくむ公議政党を核として、全九州の民権派に呼びかけて明治十五(一八八二)年三月に結成された組織である。

また、『熊本新聞』(明治十七年九月十六日)によると、杉田定一、小林樟雄、植木枝盛らも参画していたことがわかる。ここで注目したいのは、崎門学を思想的基盤とした杉田が民権派として活動していた点である。杉田は、嘉永四(一八五一)年六月二日に越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市)で生まれた。明治八(一八七五)年、政治家を志し上京、『采風新聞』の記者として活動、西南戦争後は自由民権運動に奔走した。

彼の民権思想は国体思想と不可分であり、また彼の興亜思想もまた国体思想に支えられていたと推測される。熟美保子氏は「上海東洋学館と『興亜』意識の変化」で杉田は興亜論を、概要次のように説明している。

杉田は、東洋学館開校一年前に「興亜小言」、それを修正した「興亜策」を著していた。これらの中で、杉田は、欧米は自由を求める国といいながらも実際にはアジアの自由を奪っていると非難し、「自由の破壊者」と批判している。また、アジアの現状について、それぞれがバラバラであり、互いに助け合うという事がなく、欧米人に侵略されつつある状況を嘆いている。そして、日本と清国の関係について「唇歯相依輔車相接スル」と記述していた。

こうした主張を展開した杉田は、三国滝谷寺の道雅上人とともに、崎門学派の吉田東 篁に師事していたのである。近藤啓吾先生の『浅見絅斎の研究』は、以下のような杉田の回顧談を引いている。

「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、 東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」

そして、東洋学館設立には、九州改進党と ともに玄洋社が関与していた。明治十七年長崎において玄洋社の平岡浩太郎(浦辺登「東洋経綸の魁、平岡浩太郎」参照)と日下部正一が会談している。この場で、日下部は「上海は東洋第一の貿易港なれば、此地に支那語学校を起して、日本の青年子弟を教育し、支那の国情を窮めしめば、他日大陸経営の用に当つる事を得べし、又支那革命党員と交際の道も開くべければ是非とも右の学校設立を目論見たし」と述べている。さらに、東洋学館設立には、『大東合邦論』を執筆していた樽井藤吉も関与していた。東アジア諸国の対等合邦という構想が、ある程度東洋学館の構想にも反映されていたと見ることもできる。

趣旨書で注目すべきは、「東洋ノ衰運ヲ挽回セントスルナリ」という危機意識に基づいて、清国に対して「輔車相倚リ脣歯相保ツ」という立場を鮮明にしている点に注目したい。まさに、ここには杉田や樽井の思想が反映されている。さらに『東洋学館仮規約』「緒言」にも、「東洋諸国親和シテ以テ輔車相依リ唇歯担保ツノ大ヲ失フ可カラズ」と謳われていた。(解説坪内)

東洋学館趣旨書

孤島千年ノ鎖鑰破レテ欧米ノ風潮堤ヲ決シテ入リ於此乎世態人情一変シ去リ所謂節義廉恥ナル者殆ント地ヲ拂ヒ唯新奇浮華ノ境ニ馳セ或ハ党派ヲ結ヒ以テ政党ト称スルアリ甲乙紛云政論ノ為メニ将サニ国ヲ傾ケテ已マントスルノ状アリ是豈ニ邦国ノ面目ナラムヤ惟ミルニ国家盛衰ノ岐ルゝ所以ノ者ハ外交政略ノ如何ニ因ラスンハアラス我国ニシテ永ク独立ノ体面ヲ完フセント欲セハ東洋政策ノ得否ニ注思セサル可ラス蓋シ東洋ノ神髄ハ清国ノ頭上ニ在テ存スル者ニシテ我国トノ関係ヲ論セハ即チ輔車相倚リ脣歯相保ツノ大要アル也苟モ志士ヲ以テ任スル者茲ニ主眼ヲ置カスシテ可ナラムヤ  

我輩ハ怪ムニ不堪方今外交ノ要ヲ論シ且ツ 海外ニ留学スル者欧米天地ヲ指スモ近接不可離ノ清国ニ至テハ寥トシテ聞ヘルナシ是レ洵ニ一大欠典ナラスヤ我輩ハ先ツ清国ノ政治人情風俗言語等ニ通暁シ所謂神髄手足ヲ活動スルノ妙ヲ知ルヲ必要ナリト信シ茲ニ一大学校ヲ設ケ大成有為ノ人士ヲ養成シ遂ニ将サニ長江一浮千里進テ東洋ノ衰運ヲ挽回セントスルナリ之ヲ記ス清国上海ハ即チ東洋ノ咽喉ニシテ金穀ノ輻マル所人材ノ来ル所我国ヲ隔ツル遠キニ非ス一棹至リ易キ地ナルヲ以テ此ニ校舎ヲ置ク江湖同感ノ士来レ学ヘ是レハ此レ真正ニ報告ノ本

明治十七年七月清国上海東洋学館