記事紹介【大亜細亜・第二号】崎門学と大アジア主義の関係 折本龍則

2017年02月09日

先日、弊会顧問の坪内隆彦が新著『 G HQが恐れた崎門学』(展転社)を上梓された。本書は、江戸時代前期の儒者・神道家である山崎闇齋が創始した崎門学を基調に、幕末志士に影響を与えた五冊として浅見絅齋の『靖献遺言』、栗林潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』を取り上げ、それぞれの史的背景や根底思想について論じている。

実はこの崎門学と大アジア主義は、浅からぬ因縁を有している。若き日の頭山満等、玄洋社の志士たちが、興志塾の高場乱から『靖献遺言』の熱血講義を受け、忠孝義胆を養ったことは知られているが、頭山が「五百年に
一度の傑物」と称した荒尾精もまた陸軍士官学校時代に根津一(東亜同文書院初代院長)や花田仲之助(満州義軍を組織)等の同志と『靖献遺言』を愛読し、その節義の純正なことから「靖献派」の領袖として畏敬された。荒尾は最初陸軍参謀のシナ部付として大陸に雄飛し、岸田吟香の開いた売薬店である樂善堂の支店を漢口に開いて諜報偵察に当たった。その結果、西欧の東亜侵略に対抗する為に日清が提携する必要性を痛感し、上海に後の東亜同文書院の前身となる日清貿易研究所を設立した。

漢口樂善堂の出身で、日露開戦の先立ちいち早く新疆イリ方面の探査に赴いた浦敬一は、平戸崎門派の重鎮である楠本碩水の門人である(浦に関する詳細は別稿「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の
先覚烈士、浦敬一」参照)。この平戸崎門派については、上述した坪内氏の新著でも触れられており、なかでも碩水に師事した岡彪邨(通称、次郎)は、上述した荒尾精の日清貿易研究所に入り、日清戦争に際しては陸軍通訳官として従軍した。また宮崎滔天の兄である宮崎八郎もまた、慶応三年、碩水の下を訪れ、僅か二か月の短期間ではあったがその薫陶に浴している。大アジア主義者、宮崎滔天を見出した犬養毅の五世祖は、若林強齋の学塾である望楠軒の門人に名を連ねた犬養訥齋であり、代々崎門学は犬養家の家学として継承された。訥齋という号は、その師強齋が、彼の多弁を戒めて命名したものとも言われる。犬養の没後、その筐底から発見された詩稿には、次のような五絶一首がある。
補世新無効。傳家有舊書。

不如田二頃。耕讀臥吾廬。

吾五世祖訥齋先生。以闇齋派經學垂帷。

爾來繼家學四世。至予斯學荒矣。

すなわち、犬養は家学の荒廃を憂い、その復興を念じているのである。彼が、明治四十三年に生起した南北朝正閏問題において、崎門派の内田周平と協力し、議論を南朝正統論に導いたのは、その思想的面目を明白に示す事績といえよう。このように、崎門学と大アジア主義を結び付ける証拠は多いが、なかでも上述した平戸崎門派の出で大アジア主義と関係を持った人物は上述した以外にも何人か見出される。そこで以下では黒龍会編の『東亜先覚志士記伝』をもとに、それらの関係人物を列挙し、それぞれの略歴を摘記する。

岡幸七郎

明治元年七月二十一日平戸生まれ。岡彪邨(通称次郎)の弟。家は代々松浦藩士。少壮期に兄次郎と共に楠本碩水の門に学ぶ。明治二十九年大陸経綸の志を抱きシナに渡航し、上海に留まってシナ語を修め、次いでシナ中
部の各省を旅行踏査し、同地の地理人情風俗に精通する。後に漢口に居を構え、日露戦争に際しては陸軍通訳官として従軍した。戦後、漢口で『漢口日報』を発刊し、社長として健筆を振るう。漢口在留すること三十年、その間、日本居留民会長を十数年務めた。昭和二年、健康を害して一時帰国の際、郷里の平戸で長逝した。

沖禎介

明治六年、平戸の出身。十三の時、長崎中学校に入り、次いで熊本濟々黌に転校し、さらに熊本第五高等学校に入学したが、中退して明治二十六年上京し、病を得て帰郷、静養の傍ら楠本碩水の門に入る。その後二十六年
再び上京して当時の東京専門学校(早稲田大学)に入学するも神経痛を患い退学、病癒えて後は、内田良平と親近して黒龍会に出入りした。三十三年、慨然としてシナ渡航の志を起こし、三十四年には北京に赴いて東文学社(日本語学校)の教師となった。折しも日露の風雲急を告げ、北京公使館付武官が対露特別任務班組織のため決死の志士を募るとこれに応じ、三十七年二月に戦端が開かれて間もなく横川省三等と北満に潜入したが、ロシア兵に捕らえられてハルピン郊外で銃殺刑に処された。享年三十一。
楠本正徹明治八年平戸出身。

楠本端山

碩水兄弟の甥に当たり、幼少にして端山碩水に学んだ。軍人を志し、十四の時上京、杉浦重剛の門に入る。しかし近眼の為軍人の道を諦めてからは報国の志を抱いてロシア語とシナ語を学び、日清戦争の際には軍属として威海衛の攻略に武勇を発揮した。三国干渉以降。ロシアへの痛憤止まず、二十九年内田良平と共にウラジオストクに渡航して極東情勢の調査に努めた。さらに、露清韓三国国境地帯の実情を調査するため、二十九年十月単身ウラジオストクを発し、厳寒を犯して間島地方の地理情勢を調査した後ウラジオストクに帰還するも、凍傷が悪化し、内田等の懇篤な看病にもかかわらず客死した。享年二十三。菅沼貞風慶応元年、平戸の出身。十五歳で楠本端山に入門して学に励み、藩主松浦侯の世子の侍伴となる。さらに十八の時に碩水の門に学び、東京に遊学して東京帝国大学古典科講習科漢書部に入学、主として内藤湖南の教えを受ける傍ら『大日本商業史』を編述した。これが評価されて二十一年古典科を卒業後東京高等商業学校の教師に就任した。さらに大学卒業に先立って『新日本図南の夢』と題する冊子を著し我が国による北守南進の東亜経綸策を説いた。『東亜先覚志志士記伝』いわくその精神は「スペインと戦いルソン(フィリピン)を独立せしめ東洋の元気を振作し、南洋諸島を連ねて一団となし、攻守の同盟を締結し、シナがルソンに寇せば我が国はその首を制し、シナが我が国に寇せばルソンがその尾を撃つの計を決し、以てシナをして我国の侮るべからざるを知らしめなば、東亜連合の策は茲に成り、東洋の元気を振作し得るであろう」というものであった。この図南の策を実行せんと試みた彼は、教職を辞し、福本日南と謀って二十二年四月、横浜を発して南洋の実情調査に赴いた。そして同月にはマニラに到着し鋭意実地調査に努めたが七月に至ってコレラを発病し容態急変して不帰の客となった。享年二十五。

大体以上であるが、ではなぜ崎門派はアジアを目指したのかという点が問題になる。前述した荒尾精は、『宇内統一論』を著し、「天成自然の真君」たる天皇を戴く我が国の世界的な天命を説き、いわば皇道恢弘としての興亜思想を唱えた(詳細は別稿「興亜の先達、荒尾精の『宇内統一論』を読む」参照)。この他に、特筆すべきもう一人の人物は明治の民権家である杉田定一である。彼は嘉永四年越前福井藩の出身であり、新聞記者から民権家に転じて板垣退助と共に「愛国社」を再興した。さらに明治十七年、清仏戦争が起こると東亜前途を憂い、単身上海に渡航して、同志の中江兆民や植木枝盛等と共に「東洋学館」を設立した。杉田は頭山や寺尾亨に次ぐシナ革命の同情者とされる。そんな杉田が思想的影響を最も受けたのは、勤王僧の道雅上人と福井の藩儒である吉田東篁であり、なかでも
吉田は橋本左内の師として崎門学を伝授した人物として知られる。杉田は両師を回顧して次のように述べている。「吉田東篁先生は、道雅上人の慷慨気節を尊ばれたのと違い、至極温厚篤実の人であった。それで道雅上人からは尊皇攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなって、後年板垣伯と共に、大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのであった。抑々君主の大御心は、常に『民安かれ』と願わせらるる御心であると信ずるので、内においては、藩閥政治に反対し、外においては、東洋の自由を主張したのである。欧米に向って反抗したのも、彼が東方に向って圧制を試むるからであって、我れより欧米を圧制するようであってはいかぬ。
そこで日本は終始一貫して王道の大精神に則らねばならぬと、深く確信した。