記事紹介【大亜細亜・第二号】外国人労働者問題から見る目指すべき大道の覚醒 小野耕資

2017年02月17日

ある外国人技能実習性の過労死

平成二十六年四月、フィリピン人男性ジョーイ・トクナンさんが、所属する岐阜県の鋳造会社の従業員寮で心疾患のため亡くなった。二十七歳であった。帰国まで残り三か月のことだったという。一か月に七十八~百二十二時間半の時間外労働をしていたとされ、今年(平成二十八年)八月、労災認定された。技能実習生の長時間労働による過労死認定は今までなく、異例のことだという。トクナンさんは稼いだ賃金をほとんどフィリピン本国に送金しており、フィリピンにいる娘とテレビ電話で会話することを楽しみにしていたという。

外国人技能実習制度は、企業等で働きながら専門的な技術や知識を習得するための制度で、主に発展途上国の外国人を受け入れている。表向きは、発展途上国への技能移転が目的となっているが、実際には低賃金の外国人労働者を雇用するための制度と考えてよい。また、トクナンさんが稼いだお金を本国に送金していたことからも伺える通り、外国人の側にとっても出稼ぎの手段と化している。外国人技能実習制度の問題点は、一部事業者が残業代未払いや過重労働、あるいは従事しても技術が身につかない単純作業の3K労働などを課していることである。安倍内閣は外国人技能実習生の拡大を進めている他、財界の要望を受け実習期間を三年間から五年間に延長しようとしている。

「外国人留学生」という低賃金労働者

外国人技能実習制度と並んで外国人による低賃金労働の温床となっているのが、外国人留学生である。各大学とも、少子化による学生不足から、外国人留学生の受け入れに熱心である。政府もまた、外国人留学生の誘致に執着している。安倍内閣は、二〇二〇年までに留学生を「三十万人」誘致することを「成長戦略」として掲げている。だがなぜ、留学生の誘致が「成長戦略」なのだろうか。政府にはそれなりの綺麗ごとめいた屁理屈もあろうが、要は留学生が実質的に低賃金労働者となっているからではないか。

どういった流れで外国人留学生は日本にやってくるのだろうか。まずは現地ブローカーが広告を出す。緑あふれるキャンパスで学生生活を送りつつ、月二十~三十万円稼ぐことができる、という内容だ。それに現地の
若者が応募してくるわけである。だが、日本へ行くとなると、何かと費用がかかる。若者はそれを借金に頼る。つまり多額の借金を抱えて日本に来るわけである。そして肝心の日本にやってきて学生生活を送っていたとしても、日本語がそれほど流暢でない彼らに「月二十~三十万円」の仕事などあるわけがない。結局彼らは借金だけ抱えて超低賃金労働に就くことになるのである。借金があるから、辞めて本国に帰るわけにもいかず、搾取され続けるのだ。

もちろんこう言った事例ばかりではないかもしれない。だが、留意しておくべきことは、親のカネで外国に来られるような富裕層は、もはや日本には来ないということである。途上国にとって日本は魅力ある市場ではなくなりつつある。したがって先ほど紹介したような詐欺まがいの手法で外国人を連れてくるわけだが、果たしてそのようなことをして彼らが日本に好感情を持つだろうか。彼らがこの構造に気づいたとき、日本人を恨み、「反日」化して日本から去っていく者も少なくないという。

現在の日本経済は外国人労働者が担っている、超低賃金で3Kの労働力なしには回っていかない状態になっている。もはや現代日本の生活は彼ら超低賃金外国人労働者の存在なしには成り立たない。だがその代償は、思うより大きいのではないだろうか。

超低賃金労働者が日本人に与える影響

今まで外国人労働者の実態について見てきた。日本にも他国と同様、多数の外国人が「移民」として流入している。しかし政府は公式には移民政策をとっていない。彼らは「留学生」や「研修生」という名目で日本に入ってきている。これが非人道的な低賃金労働の温床となっている。ブローカーによっては大企業の「注文」に合うように軍隊教育まがいの「指導」を労働者に施してから日本に送り込む例もあるという。

ときおり新自由主義的な政治家などが「日本人の若者はハングリー精神を失った」「外国人の方が優秀だ」といい若者バッシングを繰り返した揚句「若者を甘やかすな」とか「移民の積極化」などといったことを叫んだりする。しかしその背後には詐欺まがいの手法により多額の借金を背負わされたり、軍隊式の教育を受けさせられたりしている外国人労働者の実情がある。人身売買、奴隷貿易も同然なのだ。奴隷売買のようなことが現に行われていて、それらをダシに甘い汁を吸うものがいることは確かだ。奴隷貿易と化した低賃金労働者は本人の希望とは無関係に使い捨てられている。長期的には外国人に対して行われているような劣悪な待遇が日本の下層民に対しても当たり前のように行われる日がやってくるだろう。外国人労働者の酷使は一般の日本人にも決して無縁な話ではなく、彼らが超低賃金労働で働かされていることは日本人労働者の賃金の下降圧力や、過重労働を課される遠因にもなっている。外国人労働者が低賃金で仕事をしてしまえば、コスト削減競争が日本人労働者にまで波及するからだ。

そしてこれらの事態を発生させるべく政府に要望し続けている存在こそが、経団連をはじめとする財界である。彼らは人の人生を馬鹿にしているとしか思えない。人間は経済成長のために翻弄されるだけの存在ではない。

外国でも低賃金労働者を量産するグローバル資本

もちろんこのように労働者を非人道的に追い詰めるのは、何も日本でだけ起こっているわけではなく、世界各地で起こっている出来事である。

例えばかつて最貧国とも言われたバングラデシュでは、現在繊維産業が盛んで、バングラデシュで生産された衣類は「ファストファッション」として世界中で人気となっている。

だがその陰では、国際資本が現地民を低賃金で使い捨てる縫製工場を乱立させて、現地民はそこで一日十二時間以上働き、休みも月に一、二回しかない状況に置かれているという。また、工場からの汚染水などによる深刻な健康被害、川や海などの汚染による漁業被害が起こっているという。こうした代償を払いながらも、肥太るのは巨大資本ばかりである。現地民を搾取している巨大資本には、もちろんわが国の資本も含まれていることは忘れてはならない。

こうしたことは今に始まったことではない。だが、発展途上国民の側も少しずつ経済成長してきたことで、こうした状況に甘んじる理由を持たなくなってきている。一説には欧米で繰り返されるテロ行為はこうした低賃金労働による「恨み」が大きな影響を与えているとも言われるだけに、この問題は看過できるものではない。

日本の「企業努力」が移民の増加と国際的階級格差を促進し、アメリカに代表される巨大資本の一人勝ち体制とともに国境概念は薄れ、人々は不安、社会秩序の乱れ、混乱の中で日々生活していくことになる。これを未然に防がねばならない。

資本主義が招く故郷喪失

冷戦崩壊以降、われわれは資本主義がもたらす秩序を当然のように受け入れつつある。だが、資本主義がもたらす経済的繁栄が、人々の心の安寧をもたらしただろうか。経済的繁栄によって、人間が頽廃した面はなかっただろうか。人々は国民でもなければ民族の一員でもなく、共同体も解体され、ただ市場がもたらす商品を享受する消費者としてしか存在を許されない。その生活は確かに便利にはなった。しかしこの生活は法や人道を公然と無視する労働環境によってまかり通っているのであって、われわれは今の「豊かな」生活なるものを根本的に疑ってかかるべきではないだろうか。

故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化が巨大資本の手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。自分の企業の都合で外国人や日本人の貧困層の人生を振り回す連中は国賊と言ってよい。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。特に欧州では、その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。コスモポリタンもどきが多いこの日本国では、そういうことに鈍感で、安穏としているのである。

もちろん、移民の排斥はこうした事態の解決策に全くなっていないことを併せて指摘しておかなければならない。真に糾弾されるべきは人々の生まれ育った文化を破壊し、ヒトモノカネを自由に動かすことで人々を搾取し、うまみを得ている巨大資本の方である。今、世界各地でホームグロウンによるテロ行為が発生しているが、グローバリズム、資本主義がホームグロウンによるテロをもたらした根本原因であることを認めることが必要である。移民の子孫が自国社会に適応できず疎外され、低賃金労働につかざるを得なくなっている。移民一世では本国よりは生活状態が良くなることや、本国への仕送りの使命感から労働に甘んじることができるかもしれないが、二世以降はそうではない。言葉もセミリンガル化し高度な事象を理解することは難しく、将来の展望もない彼らが過激思想に染まることも不思議とすべきではない。もちろん外国人が即テロリスト予備軍であるかのような偏見は慎むべきなのだが、それは問題の根本原因をおおい隠すことになってはならない。

資本主義の発達はグローバリズムをもたらしたが、このグローバリズムは人々を故郷喪失の憂き目にあわせた。それは移民により故郷から引きはがされた人々を指すのはもちろん、資本主義的開発で故郷が様変わりし、すっかり民族の風景を破壊されてしまったことをも示す。祖国の共同体が機能しなくなってきたことが、資本主義即ちグローバリズムがもたらした負の側面である。ホームグロウンの問題はその極端な事例として注目されるべきであろう。

移民も二世、三世と定着してしまえば、低賃金労働を生まれながらに押し付けられなければならない理由を持たない。その不満にテロ組織が忍び寄り、心の隙間を利用するのだ。大事なのはその「心の隙間」をもたらしている資本主義、グローバリズムに対する疑念を持つことである。

グローバル化で最も悪趣味だと思うのが、次はここが発展する式のフロンティア探しだ。支那やロシア、ブラジル、インド、南アフリカ、ベトナム、インドネシア、ミャンマー、トルコ、バングラデシュなど様々な国が挙げられている。これらすべてがそうだとは言わないが、概して貧富の格差が甚だしく、治安も悪く、人々が貧困にあえぎ、政治にも問題を抱えている場合が多い。そんな国に乗り込んで、一部の金持ちや政府関係者、軍関係者とつるんで商売を始めて大儲けして喜んでいる。資本主義の下劣さを余すところなく示しているといってよい。なるほどこの下劣な集団により雇用が生まれ、最貧の住民にも生活のすべが生まれたこともあるだろう。だがそうやって経済成長してしまって賃金が上がって旨みがなくなったらどうするのか。次なるフロンティアを求めて一斉に手を引いてしまう。外資に依存した雇用はなくなり、再び貧困にあえぐことになる。そうして人々が充分飢え死にしたら、新たな「フロンティア」として「再認識」されるのだろうか。あまりにも下種な連中という他ない。しかし日本もこうした下劣な「グローバル化」の恩恵を受けてしまっている当事者なのだ。

グローバリズムを打破する興亜論

歴史を近く見たときのグローバリズム、長く見たときの近代的価値観、そういったものを根源的に見直さなくてはならない。各国がそれぞれ培った伝統文化に回帰することが、それへの強力なアンチテーゼになるとわたし
は考えている。そしてそれを主張した人達こそ、戦前の興亜論者たちであった。

興亜論は確かに列強の植民地政策に対する反発と言う側面もあった。しかし彼らはそこからさらに一歩哲学的に踏み込んで、西洋近代の価値観の根本的な見直しにまで言及していた。本紙『大亜細亜』の創刊の辞でも、「メッカ巡礼を二度敢行した興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると喝破した。大道への自覚と研鑽、伝統の回復こそが大亜細亜の志なのである。國體の理想に基づき国内維新を達成し、亜細亜と道義を共有していくことが、我らが目指す道なのではなかろうか。それが「八紘為宇の使命」にほかならない。」と謳われている。

田中逸平は明治十五年生まれで、日本人イスラム教徒の草分け的存在である。田中が『白雲遊記』を著すのと同時期には満川亀太郎が『奪はれたる亜細亜』を、大川周明が『復興亜細亜の諸問題』を上梓する時期に当たる。この三者に共通することは大アジア主義を主張しただけでない。それまでのアジア主義は日本支那印度の関係にとどまっていたが、彼らはそれに加えイスラム圏を「アジア」の問題として捉えたのである。

田中は興亜をアジア諸国の政治的外交的軍事的連帯に求めない。はたまた白人に対する人種的闘争にも求めない。大道を求め、それぞれの文化で培った伝統的思想の覚醒に努めるべきだと唱え、日本においては「神ながらの道」がそれにあたるという。田中はイスラムにもその「古道」が流れているのを感じ取ったのである。

伝統的信仰を取り戻し、侵略者を追い払うことを通じて、立国の精神を共有することが興亜論者の志であった。現代においては、敵は帝国主義勢力ではなく、グローバル資本である。グローバル資本のヒトモノカネを自由化させ文化的破壊をもたらそうとする事態への反発を通じて、各国が立国の精神、大道に到達することこそが真の目指すべき道ではないだろうか。

わたしが理想とするのは、各民族が自らの伝統、文化、民族の誇りを保持しつつ互いに共生し、切磋琢磨することである。そのためには世界を画一化させる思想に反発し、世界各国をそれぞれの土着文化に回帰させなければならない。移民政策はその土着文化をかき混ぜて破壊させる行為である。土着文化こそ人間の魂、生命である。土着文化は一身を超えて、歴史的にわれわれの過去現在未来をつなぐ一本の流れである。それへの敬意が必須なのである。

おわりに

わたしの個人的見解だが、例えばかつて民主党政権時に持ち上がった「東アジア共同体」構想のようなアジア各国との単純な政治経済的連帯、EUの東アジア版を作るような構想は目指すべき道ではない。そこに「国際資本の規制」、「地産地消」と「各国の伝統への回帰」がなければならない。各国の連帯は、「タックスヘイブン(租税回避地)」ならぬ「グローバルキャピタルヘイブン(グローバル資本回避地)」を作るためにこそ必要なのだ。

そのためにまず大アジア主義発祥の地日本で、維新が成されなければならない。維新とは単に政府転覆を意味するのではなく、しつこく述べるように、「国際資本の規制」と「伝統回帰」への国民の自覚と覚醒が目指されなくてはならないのである。単に政策の問題ではなく、「自覚と覚醒」が必要だというところが重要な要素なのだ。

ヒトモノカネが自由に行きかうグローバリズムがゆがみを見せる中で、全く新しい共生の理論が求められているように思う。