記事紹介【大亜細亜・第二号】樽井藤吉―「和」の精神により『大東合邦論』を唱えた 顧問 坪内隆彦

2017年01月30日

天誅組と森田節斎門下の影響

樽井藤吉は、日本で初めて「社会党」を冠した政党を設立した人物であると同時に、日韓合邦ひいては東亜全体の連合を提唱した人物として知られる。しかし、彼の思想を支えていたものは、外来の社会主義や安易な対外
協調論ではなく、日本の伝統思想であった。
樽井は、「大和」、「親和」など「和」をキーワードとした日本の伝統的価値を普遍的なものとして称揚した。彼もまた、近代西洋文明を超えようとする独自の視点を持っていたのである。嘉永三(一八五〇)年四月十四日、樽井は大和国宇智郡霊安寺村(現在の奈良県五條市)の材木商の家に生まれた。奇人だったという評価もあるが、若い頃から天才的側面があったとの見方もある。例えば『東洋社会党考』を著した在野の近代史家、田中惣五郎も、樽井の独創性を強調する。また、独自の国家社会主義を模索した山路愛山は、樽井について「一種の天才を有したり。氏が数学を学ぶや、師に就いて独り見一(二けた以上の割り算=筆者)を卒へたるのみにて其他は自得して復た師の手を煩はさざりしが如き」と書いている(山路愛山「現時の社会問題及び社会主義者」『独立評論』明治四十一年五月三日(『明治文化全集六巻』)三百七十四頁)。文久三(一八六三)年、十三歳の夏、樽井の郷里大和を震撼させる事件が起きる。天誅組の変(大和の変)である。八月十三日、大和行幸の詔発令を受けて、尊王攘夷派の公家中山忠光を首謀、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂を総裁として、天誅組が誕生した。同月十七日、天誅組は南朝ゆかりの観心寺で後村上天皇稜、楠木正成の首塚を参拝した後、五條へと向かった。午後四時過ぎ、五條代官所を襲撃、代官鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払った後、桜井寺に本陣を構え、ここに代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すことを宣言した。しかし、京都では薩摩藩会津藩を筆頭とする公武合体派が巻き返しを図っていた。両藩は、反長州派の公家であった中川宮を担ぎ、孝明天皇に長州派公卿の追放を提言した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命幕命による諸藩の追討を受けて壊滅した。天誅組の変は、悲惨な結末を迎えたが、明治維新の魁となったことは間違いなく、その後もその精神は、勤皇志士たちに受け継がれていく。この天誅組組織化に尽力したのが、五條出身の森田節斎である。森田は、文化八(一八一一)年十一月、医師森田文庵の三男として生まれ、青年期に京都で頼山陽に学んでいる。樽井はこの森田の思想から強い影響を受けたのである。樽井に歌道、漢籍等の手ほどきをしたのが、豪農の北厚治、神官の藤井頼重、僧侶の天野快道ら、森田の門弟たちであった。特に北との関係は強かったと指摘されている。後に、樽井は衆議院議員選挙に出馬する際、納税資格を得るために一時的に、北家の分家である森本家に入籍している(高木知明「在京時代の樽井藤吉の軌跡」『日本歴史』平成十一年九月、七十一頁)。また、森田やその門弟たちは、梅田雲浜との交流を深めていた。山崎闇斎を開祖とする崎門学派三傑の一人浅見絅斎の思想を継承した梅田は、代表的な勤皇志士として活躍していた。弘化元(一八四四)年には、森田が雲浜の家を訪ね、肝胆相照らす仲になっていた(梅田薫『梅田雲浜と維新秘史』東京正生学院、昭和五十四年、六十一頁)。三総裁の一人藤本鉄石も雲浜の同志であった。十津川郷士は、森田が門下の乾十郎とともに調練したとされているが、雲浜が果たした役割も極めて大きい。

皇国学振興を目指した井上頼圀に入門

天誅組の変からちょうど十年後の明治六年五月、樽井は上京する。同郷の先輩、保中富之助が西郷隆盛の書生に推薦しようとしたが、西郷は下野してしまい、その構想は実現せず、樽井は井上頼圀の私塾神習舎に入る。井上は、天保十(一八三九)年二月に江戸神田松下町で生まれている。井上家は、代々神田で医業に携わっていた。文久元(一八六一)年に易学者の稲垣新右衛門の紹介により、平田篤胤の養子鐵胤に入門を請うている。この結果、井上は篤胤没後の門人となり、古学研究の一歩を踏み出した。さらに、元治元(一八六四)年には、皇国医学を学ぶために権田直助に入門している。井上は、学問を追求しただけでなく、勤皇志士として実践も重視していた。西洋思想の伝播により、祖先崇拝、敬神忠君の国民性が破壊されるのを憂え、皇国学の振興を目指した井上が明治四年(五年説もあり)に開いた私塾が、神習舎である。やがて、明治十五年六月には、我が国古来の道義を究明し、国体の尊厳を明示するため、鐵胤門人の松野勇雄らとともに皇典講究所を設立している。さて、神習舎に入った樽井は、井上門下の旧会津藩士永岡久茂、旧飫 おび 肥藩士稲津南洋(稲津済)、旧鹿児島藩士海老原穆 ぼく 、旧津軽藩の家老杉山龍江らから大きな影響を受けることになる(田中惣五郎『東洋社会党考』新泉社、昭和四十五年、八十二頁)。彼らとの交流を通じて政治意識を高めた樽井は、次のような建白書を次々と書いている。①「舩将修練、俳優改正、虚文之書廃之議」(明治六年十二月二日)②「海軍水夫、劇場俳優ノ議」(明治六年十二月二十五日)③「劇場之再議」(明治七年一月二十三日)④「設選挙院議」(明治七年五月二日、同月八日)⑤「設選挙院之再議」(明治七年八月七日、十月七日)これらの建白書を分析した高木知明氏によると、①、②、③には、明治の新政の目標と方策、④と⑤には藩閥による有司体制への批判とその克服の方策が述べられている。④では、明治六年の政変以降の政治的混乱を批判し、「奸邪の臣朝権を専らに」したのが混乱の原因だとして、その責任を追及している。明治十年二月に西南戦争が勃発すると、樽井は永岡久茂、杉山龍江らとともに、奥州へ募兵の旅に出ている(鈴木正「解説東洋社会党の創設者─樽井藤吉」『東洋社会党考』三百七頁)。ところで、樽井が井上の神習舎に入門したのは、天誅組に関わった勤皇志士とのつながりからだと推測される。天誅組と井上とを繋ぐ中心人物が、勤皇画士富岡鉄斎である。鉄斎は、井上と同じ平田門弟の大国隆正の弟子であった。麗澤大学教授の欠端實氏が指摘している通り、井上と鉄斎は矢野玄道を介して早い時期から結ばれ、明治元年から二年にかけては、ともに語り合うべき多くの時間を持っていたと考えられる(欠端實「廣池千九郎におけるアイデンティティの確立」『モラロジー研究』平成十七年九月、五頁)。一方、天誅組の藤本鉄石は鉄斎の先輩であり、松本奎堂は鉄斎の友人であり、ともに深い交流があった。

アジア的価値観=道義に支えられた平等思想

明治十五年五月、樽井は東洋社会党を結成する。「社会党」と名乗ってはいるが、外来思想としての社会主義とは無縁であり、勤皇志士としての行動を支えた道義国家日本の理想の体現を目指したものだといって良い。党則第七条には、次のような表現が見られる。「東洋文明の気運茲に東洋社会党を鎔造す、 東洋社会党諸君、我東洋社会党は諸君の力に因て興るに非ず、予が誘導を以て成るに非ず、東方文明の照光に蒸発する吾人が脳漿、相感合凝和して垂天の雲となり一味の雨となり、平等の徳沢を社会に流さんと欲する所なり」、「予が中心は仏子の如く慈眼常に公衆を見ん、予が中心は太陽の如く光明遍く社会を照さん、其平に偏ならざるは、予が天与の性情に出る所なり」、「予が奉ずる所の君主は一の道義のみ、道義亦予を制する能はず、予が脳裏は則道義なればなり」ここには、樽井の目指す平等思想が、道義を中核とするアジア的価値観に支えられていたことがはっきりと示されているとともに、皇道だけでなく仏教などの東洋思想の普遍性を幅広く動員しようとする樽井の意図が表れている。右の党則第七条にある「一味の雨」とは、分け隔てのない仏の広大な慈悲の現れのことである。樽井は、明治十五年七月に開催された政談会での演説では、天照大御神とは太陽のことであり、太陽が「尊卑ノ区別ナク」照らすことこそが平等だと述べている。さらに、阿弥陀仏は道徳の異名だとして、東洋社会党はこの道徳を以って成立したと説明している(高木知明「東洋社会党に関する一試論」『日本歴史』平成二年十二月、六十八頁)。赤松克麿は、東洋社会党の綱領に示された道徳、親愛、平等などの観念は、すべて東洋思想が根底をなしていると書いている(赤松克麿『日本社会運動史』日本通信教育振興会、昭和二十四年、二十六頁)。樽井は、東洋社会党の理念として「親和」を重視していた。例えば党則第六条には、「我党旨を拡張するに親和を以て宗とすべし」と、また第十一条には、「社会党と称するは大なる親和党と曰う義なり、社会は人々の相親和鳩合したるを指す称なればなり」とある。樽井が東洋社会党を大和党と呼んでいた形跡さえある。樽井にとって「大和」は、「大いに和する」という日本の理想を示す言葉である3と同時に、「あらゆるものの母胎となる」という意味を含む格別の言葉であった。東洋社会党は、明治十五年六月二十日に禁止されたが、樽井はなおも運動を完全にはやめず、翌年一月二十五日に党則を印刷配布したため、禁固一年の刑に処されている。注目されるのは、副島種臣が娘婿の諸岡正順を通じて、政府に禁止された東洋社会党に支持を与えていたことである。樽井は、「諸岡正直氏は元佐賀人なるが、其叔父副島種臣の命を含み、東京より来られ、大いに社会主義を鼓舞せらるゝや、予は大いに意志を強うせり」と書いている(『東洋社会党考』二十八頁)。出獄後、樽井は頭山満、平岡浩太郎ら玄洋社の志士たちとの関係を深めていく。明治十七年暮れには、平岡らに協力して上海で東洋学館の設立に動いていたが、上海滞在中、朝鮮開化派リーダーの金玉均が日本に亡命したことを知り、急遽日本に帰国する。樽井、福澤諭吉、玄洋社の志士たちは、それぞれの立場で金に対する支援に取り組んでいた。頭山らは朝鮮に義勇軍を送る計画を立てたが、その最中の明治十八年十一月、朝鮮の親清派政府を倒し、その勢いをかりて日本の改革を推進しようとした自由党左派の大井憲太郎らの計画が発覚した(大阪事件)。この事件で、樽井も大井の一味と疑われて投獄されている。だが、大井とは別に、樽井は独自の構想によって金への支援を試みていたのである。それを支援していたのが、吉野の土 どくら 倉庄三郎であった(琴秉洞『金玉均と日本』緑蔭書房、平成十三年、二百十~二百十三頁)。土倉は、天保十一(一八四〇)年四月、吉野郡大滝村(現吉野郡川上村大滝)の山林地主の家に生まれた。土倉家は、家伝によると、楠木正成の三男正儀の子に始まる。「大山林王」と呼ばれた通り、彼は吉野を日本一の林業地に育て上げ、その財力を自由民権運動につぎ込んでいた。板垣退助が外遊した際には、その費用のほとんどの二万円を出したともいう。ちなみに、土倉は同志社創立の際に支援した新島襄を介して、頭山満とも強い糸で結びついていた(松本健一『どぐら綺譚』作品社、平成五年、百四十一頁)。

『大東合邦論』に込められた理想

大阪事件で投獄される前に樽井が書き上げていたのが、『大東合邦論』である。しかし、この原稿は投獄によって没収されてしまった。そのため、樽井は明治二三年に、朝鮮半島や中国でも読まれるようにと、漢文で再稿した。その際に、副島種臣の教示により、北海道開拓で知られる岡本韋庵の指導を受けている。翌年、中江兆民の主宰する『自由平等経綸』誌で連載し、それをもとに明治二十六年八月に同書は刊行されている。実は、福澤は、金玉均によるクーデター(甲申政変)の失敗を契機に、朝鮮の改革に悲観的になっていき、明治十八年三月には、『時事新報』に「脱亜論」を載せるに至る。まさに、金支援に関わった樽井と福澤は、ほぼ同時期に対照的な結論に到達していたのである。樽井は、福澤らの主張を意識し、『大東合邦論』の中でも、「近来に於ける大院君の一挙や、金玉均の反乱は更に両国の感情を害するものであり、どうして両国の提携和親を望むことが出来ようなどと云ふ論を為す。かくの如きは、過去の小過にこだはつて、将来の大計を失ふものにほかならない」と書いている(『現代訳大東合邦論』(『影山正治全集十七巻』影山正治全集刊行会、平成四年)五十七頁)。樽井が『大東合邦論』を着想したきっかけは、玄洋社を訪れ、万国公法を読んだことにある。「瑞西の中邦は、普王の領土でありながら猶且つ瑞西連邦の一に加つて居る」という箇所を読み、日韓の合邦を思いついたという(『東洋社会党』百六十一頁)。また、『大東合邦論』執筆においては、玄洋社のブレーン的存在であった香月恕経の協力を得たとされている。『大東合邦論』は、「序言・国号釈義・人世 大勢上・人世大勢下・世態変遷上・世態変遷下・万国情況・俄国(ロシア)情況・漢土情況・朝鮮状況・日本状況・日韓古今之交渉・国政本原・合同利害・聨合方法論・清国宜与東国合縦」という十六の章から成る。その主眼は、第一に列強の進出に対するアジアの共同防衛であった。「ヨーロッパ人の侵略的野望は実にたくましいものがある。彼らが東亜の地をねらつて居ることはまことに久しい」と書いている通り、樽井は列強の進出に対して強い警戒感を示していた。「かの白人の黄人に対する圧倒的大攻勢に 対しては敢然として抗しなければならないと考へて居る。黄人勝たなければ、遂にすべて白人の奴隷とされてしまふだけだからである。これに勝つの道は、ただ同人種一致団結して、一大勢力を養ふことのみである」とも書いている。また、樽井は次のように述べる。「西洋人は『東方二海陸に強国あり』と称 して居る。日本とシナを指すのである。幸ひに此の二強国があつて我が東亜黄色人種の威厳を保つて要る。もし黄人中、此の二国が無かつたならば、白人勢力は早くすでに我がアジア全州を蹂躙し、我が兄弟の黄人すべてを奴隷化してしまつてゐたであらう」『大東合邦論』が日本のアジア侵略の理論 的根拠とされたなどというのは、全くの曲解である。樽井は列強に対抗して、日本が同様の政策を採用することに反対しており、「領土拡張方式」は見込みがないと明確に記している。日韓合邦後の政体については、一種の連邦制を取り、日本朝鮮の対等性が維持できるよう「大東」という新国名をつけようとしていた。樽井の狙いは、歴史的に深い交流があり、文化的にも多くの近親性を持つ日韓両国の関係を強めること自体にあった。彼は、「我が大東両国は、僅かに一 いちいたいすい 葦帯水をへだてて相隣り、晴天の日には互ひに山嶽を望むことがで4きる。太古の時代から、飛鳥相往来し、草木の果実は互ひにその海岸に漂着した。人間的交渉に於てももちろんである」、「両国人の固有信仰の点でも甚だ類似して居り、人種的にも全く同種であること疑ひない」と書いている。日韓両国にとって「東」の一字が深遠な意味を持つと認識していたからこそ、彼は「大東」という名称を冠したのである。彼は、〈日本〉の国号は〈東方〉の義に基づき、長く「東」の字を以て国の別号としてきたし、〈朝鮮〉もまた「東」の字を国号としてきたと理解している。そして、樽井の日韓合邦論は、日韓のみで完結するものではなく、日韓の連携を基盤にして、日中韓三国の連携へと進み、次にアジア全体の連帯、さらには人類全体への連帯へと進むという構想であった。影山正治は、「『大東合邦論』の根本主旨は、『世界連邦』実現の大理想を前提としての『アジア連邦』実現を考へ、その『アジア連邦』実現の前提として先づ『日韓連邦』の実現を念ずるところにあった」と書いている。こうした理想主義的主張は、樽井の「親和」、「大和」の思想と不可分である。彼は、「我が日本人としては、もとより親和を以て根本信条とし、大和の道を以てあらゆる人種と交ってゆくことを念願として居る」とも書いている。現在、東アジア共同体設立に向けた動きが進展する中で、中国主導のアジア連帯を警戒する論調も高まっている。確かに、今日様々な立場からの東アジア共同体支持論があり、支持の理由を吟味してそれぞれの主張を評価する必要があるが、東アジア共同体支持論すべてを否定してしまうことは、東亜諸国が「大和主義」的理想を共有し、西洋近代の価値観を乗り越えていこうという、樽井ら維新派の理想を捨て去ってしまうことにもなりかねないのではなかろうか。樽井は、あれほど金玉均支援に熱意を示していた福澤が、ついには脱亜論に行き着く過程を目撃しており、アジア連帯の難しさも熟知していた。しかも彼は、わざわざ西洋人識者の現代シナ観を詳しく紹介し、「シナの現状には悲観的な面が多い」とも結論づけていた。それでも、彼は理想を手放さず、次のように期待感を語っていたのである。「シナは東亜の古国である。文物制度の盛 んなること四隣に先んじてゐた。我が国もまた嘗てシナに学び、以て自国の政教に資した。益友と云ふべきである。ことに、その国土は唇歯の関係にあり、その人種は同一である。これ先天的な深縁であり、避くべからざるものの上に立って居る。よろしく日支両国は、相親睦して、共に手をたづさへて富強開明をはかるべきである」、「シナ盛んなれば、則ち我が国、利を受け、衰へれば則ち害を受ける。その盛衰興亡、直ちに我が国に絶大に影響することを察すべきである」葦津珍彦は、『大東合邦論』に示された東亜連帯論を次のように評している。  「日韓両民族の同等親和、相互敬重の大切 なことを力説してゐるが、それは決して政策的な駆引きや外交的儀礼から出たものではなく、熱烈な真情の流露であることを信じさせる力がある。著者は、清国や韓国の国民について、国家の現状について、遠慮のない批判も加へてゐる。かれは形式的な社交辞令を用ゐない。しかしそこには、決して人種的偏見がない。あくまでも親愛なる対等の兄弟としての真情をもつて語つてゐる」(葦津珍彦「『大東合邦論』と日韓合邦」『不二』第十八巻第三号、十六~十七頁)。やがて、清国では梁啓超が『大東合邦論』を『大東合邦新義』という書名で無断で刊行し、ある程度広く頒布されたという。また、李容九は若い頃に『大東合邦論』を読み、それに共鳴していた。これが、彼が日韓合邦運動を展開するきっかけになっている。

維新発祥地としての五條への思い

『大東合邦論』刊行の前年の明治二十五年、 樽井は衆議院議員に初当選している。この際、樽井を援助したのも、金玉均支援以来の協力者、土倉庄三郎であった。だが、樽井は議員としての活動にも限界を感じていたに違いない。葦津珍彦も、「鉄道、製鉄、造船、病院等の国有論を主張した。しかしかれの主張は議会では、ほとんど問題にされなかったらしく、かれは議会での政治活動には望みを棄て」たと書いている(前掲十四頁)。先に述べた通り、樽井は禁固一年の刑に処せられ、東洋社会党の活動は頓挫したものの、東洋思想を基盤とした独自の社会主義思想はその後も持続していた。明治二十四年一月に発表した一連の『請願書』には、民間の鉄道、鉱山、郵船などを買い上げて「公同民社」に移管するという一種の国有化政策採用の請願も含まれている。また、教育に関しては、「貧民の子弟と雖必ず小学に入らしむる法制を定められたき」とする請願を作成している。一方、国粋派、国民論派の社会主義思想も次第に広がりを見せていた。陸羯南もまた君民同治の美風に基づいた独自の社会主義思想を模索していた。明治三十年四月には、社会問題研究会が発足し、樽井のほか、陸、三宅雪嶺、福本日南、酒井雄三郎、幸徳秋水、片山潜ら論客たちが結集している。この時期、樽井は堺利彦の紹介で「国有銀行論」を『太陽』に発表している(鈴木正「東洋社会党と樽井藤吉」『アジアと日本』農村漁村文化協会、平成十九年、二十九頁)。また、政教社グループの『日本人』に頻繁に寄稿するようになり、例えば明治三十一年二月二十日には、「社会主義国業篇」を載せ、従来の主張を発展させて、各産業を統括する一大公司を建設し、公衆の便益となっていない民間事業を移管することを主張している。また、明治三十一年七月二十日号には、「社会主義国業保険論」を発表している。さらに、樽井を中心として協同親和会が発足し、当時社会問題となっていた足尾の鉱毒問題解決に取り組んでいる。松
村介石も会員の一人で、幸徳秋水も出入りしていたという。樽井の立場は十三歳の夏に衝撃を受けて以来、勤皇志士の精神の追求という点で、いさ
さかの揺らぎもなかったのではなかろうか。晩年の大正八年、彼は『明治維新発祥記』を著している。その序文で、徳富蘇峰は次のように樽井を称えている。「大和の遺老樽井藤吉君は憂時慨世の士也、 君平生天忠組の事跡に感ずる所あり、考拠数年其の忠烈を表旌し、名けて明治維新発祥記
と曰ひ、更に一大銅標を建立し、之をして国民教育の標準たらしめんとす、嗚呼君の志を国家に存する深且厚と謂ふべし」ここに述べられた通り、樽井は天誅組が本陣を構えた桜井寺に、住職の康成師らの協力を得て、「明治維新発祥地記念碑」を建立する運動に乗り出していた。保田與重郎は「五條が、明治維新発祥地となつたことは、見方によつては、建武中興発祥地の伝統をうけたものである」と書いている(『南山踏雲録』新学社、平成十二年、七十三、七十四頁)が、樽井もまた五條が明治維新発祥地となったことを、むしろ必然だと考えていたのかもしれない。同時に、彼は五條に生まれたことを終始意識し続けようと、吉野川と丹生川という二つの川からとった号「丹芳」を用いていた。しかし、議員を辞した後の樽井は、満州や朝鮮で鉱山経営を試みたものの成功せず、不遇の時代が続いていた。それでも、天誅組に象徴される勤皇の志士たちが目指した、日本の理想的統治に普遍性があることを疑わなかったからこそ、彼は時代に流されることなく、苦境に耐えて自らの立場を堅持したのではなかろうか。晩年、樽井には小原歌という同棲相手がいた。彼女は、樽井を次のように振り返っている。「えゝ人や、えゝ人やけれど金が無い。よ うしてくれるんだが金とること知らん人やさかいな。朝鮮でも大きい鉱山を持って居たのや。今は随分儲かつて居ると言ふことやが、それなどもいつの間にか人に取られて仕舞ふは」(『東洋社会党考』二百五十三頁)亡くなる前日の大正十一年十一月二十四日、樽井は大きな竹の杖をついて、歌のところを訪ねたという。そして、いろいろ厄介になったと言って帰宅した。翌二十五日、樽井は寂しく七十三年の生涯を閉じた。霊安寺村の満願寺で営まれた葬儀に会葬する者は僅かだったという。