記事紹介【大亜細亜・第二号】連載 大亜細亜医学の中の日本② 坪内隆彦

2017年03月02日

前回、欽明天皇時代に百済から医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)が来日したことの意味を説明した。

欽明天皇の後の敏達天皇(五七二~五八五年)時代にも、仏教思想あるいは朝鮮半島からの影響は続く。敏達天皇ご自身は廃仏派寄りの立場をおとりになっていたとされているが、この時代、病に冒された蘇我馬子が勅許を得て仏陀に祈祷したことを契機として、病の治療には仏陀の力が必要だという信念が国民に広がった。

用明天皇(五八五~五八七年)は、崇仏派寄りとされ、絶えず仏陀に祈祷されたため、仏陀の加護があれば疾病は治癒するという信念がさらに国民に深まっていった。

そして、推古天皇(五九三~六二八年)の時代、厩戸皇子(聖徳太子)が「薬草は民を養う要物なり。厚く之を畜うべし」と、勅命をもって薬草の採取貯蔵を奨励するに至る。厩戸皇子はまた、推古天皇元(五九三)年、四天王寺を建立の際、四箇院の一つとして施薬院を建てたとされている。

推古天皇は、六一一年五月五日、菟田野(現在の奈良県宇陀市大宇陀迫間や中庄周辺の「阿騎野」)で、薬猟りを開始される。『日本書紀』には「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ。会明を以て乃ち往く」とある。当初、薬狩りでは薬効の鹿の角をとっていたが、やがて薬草の採取となっていたと考えられている。

高句麗では三月三日に楽浪の丘で鹿猪を狩る行事があった。また、古代中国の長江中流域では五月五日に雑薬を摘む民間行事があった。推古天皇の薬狩りには、高句麗と中国双方の影響が窺える。推古天皇の薬狩りは、冠位十二階に基づく冠をつけ、冠と同色の服を着用し、冠には飾りを用いた。このような服飾は、高句麗と類似している。

推古天皇の薬狩りには、朝鮮半島から流入した医学知識が影響を与えていたと考えることができる。推古十(六〇二)年十月には、百済の僧観勒が来朝していたのである。日本における初代僧正となった人物だ。六世紀末から七世紀初頭にかけて創建された飛鳥寺に隣接する飛鳥池遺跡から「観勒」と書かれた木簡が出土している。

観勒によって、わが国には天文、暦本、陰陽道などが伝えられた。朝廷は、書生三十四名を選び、それぞれ分担して観勒の学問を吸収させた。暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、そして方術(医術)は山背日立(日並立、やましろのひたて)に学ばせていた。推古天皇時代のわが国の医術は、朝鮮半島からもたらされた医学知識から強い影響を受けていたのである。

→併せて読みたい 「大亜細亜医学の中の日本①」